2017年9月17日日曜日

『ある英人医師の幕末維新—W・ウィリスの生涯』ヒュー・コータッツィ著、中須賀哲朗 訳

幕末明治の頃に英国公使館の一員として来日し、医師として活躍したウィリアム・ウィリスについてまとめた本。

著者ヒュー・コータッツィは駐日英国大使だった人物で、本書はその在任中に書かれたものである。ウィリスは本国の親類や友人のアーネスト・サトウに向けてたくさんの手紙をまめに書いており、本書はそうした書簡を元にウィリスの日本での活動を辿っている。

ウィリスというと、私たち鹿児島の人間には馴染みが深い人物で、西郷隆盛がウィリスをとても信頼していたという話もあるし、ウィリスは鹿児島大学医学部の学理上の祖でもあるのに、その知名度にも関わらず、彼の人間的な側面についてはほとんど知られていない。

本書は、ウィリス自筆の手紙で構成されるものであるから、自分をよくみせようという彼のささやかな虚栄心があるとしても、個人的な手紙がほとんどであり、彼の内面を雄弁に物語るものだ。

そういう彼の内面を一言で表すなら、間違いなく「ヒューマニズム」ということだろう。本書には、ウィリスが会津戦争に医師として従軍した記録が数多く収められているが、無償で敵味方関係なく傷病者を治療・看護したその情熱がよく伝わってくる。そして、彼がいつも気にかけていたことは、負傷した捕虜が一切見当たらないことであり、それは敵兵を皆殺ししていることを暗に示していた。彼は、敗者への人道的な扱いを一貫して主張するのである。

そして、日本で直面した外国人へのいわれない敵意にも、彼は極めて紳士的に対応していたように見える。英国人というものは立派なものだ、と思われるように、と彼は述べるが、とにかくどんなに敵意を示されても、寛容で親しみのある姿勢を崩さなかった。一方で、非合理なことに対しては毅然として正論を主張したのも彼であった。

しかし、ウィリスがヒューマニズムに燃えた聖人君子だったかというとそうでもない。そもそも日本への赴任は、一種の人生からの逃走の側面があった。イギリス在住中に、ある看護婦との淫らな関係により私生児を産ませてしまったこと、そういう負の人生から逃れるために遠い日本までやってきたという見方も出来るのである。

事実、日本へ赴任してきた当初のウィリスの手紙は、日本への不満、未開な文化への軽蔑的な見方といったものも散見される。次第にウィリスの声望が高まり、副領事として活躍するようになるとだんだん日本という国にも親しみを覚えていったようである。

そしてウィリスは、日本政府から請われて東京医学校を任されることになる。英国大使館を休職し(本書では「賜暇」と表現)、日本政府のお雇い外国人となって、西洋医学を日本に広めようとした。だが東京ではオランダ医学を学んだ蘭方医が幅をきかせており、蘭方医たちはドイツ医学を輸入したがった。ウィリスは「日本における医学の父の一人」となりたいと孤軍奮闘するが、遂にその願いが叶えられることはなかった。

ウィリスは公使館へ戻ることもできたが、あくまで医師として生きていきたいという希望もあって、戊辰戦争以来親交のあった薩摩藩に招かれることになる。といっても、彼は失意の中で、お金のためにしょうがなく僻地の薩摩に行く、というような心持ちだったようだ。

鹿児島に「都落ち」してからの手紙は、苦渋の毎日を伝えている。外国人への敵意、暑すぎる気候、たった一人の英国人という孤独、そして漢方医からの反発といった逆風の中で、浄光明寺跡に設けられた西洋医院を任され、そこを拠点として鹿児島での医療と医学教育、公衆衛生、食生活の改善などに取り組んだ。やがて彼の働きぶりは高く評価され、その医学校・病院は発展していった。私生活においても、江夏八重との結婚、そして息子アルバートの誕生もあり、孤独は癒えていったようである。八重との結婚は、お雇い外国人にありがちな現地妻としてではなく、生涯の伴侶として考えていたようで、鹿児島に一家の生活のための宏壮な住宅も建築している。

しかしようやく手に入れた幸せな生活も、西南戦争の勃発によって壊されてしまった。彼は八重や息子たち(前妻の子ジェームズも含む)を連れて東京まで避難するが、やむなく家族をおいて彼だけが英国に帰国することになった。戦後にはまた鹿児島に戻るが、そこにはもう彼の居場所はなかったらしい。外国人排斥から彼を守り温かく迎えた大山綱良や、よき友人であった西郷隆盛はいなくなり、ドイツ医学の方が重んじられたという背景もあって、仕事をみつけることができなかったのだ。

こうしてウィリスは息子アルバートだけを英国に連れて帰った。その後おそらくはアーネスト・サトウのはからいによってバンコクの駐在英国総領事館の医師として働いた。ウィリスはタイで8年ほど過ごし、日本でと同じく高い名声を博したが、体調を崩して英国に帰国し、58歳で亡くなった。

ウィリスが日本に滞在したのは、25歳から40歳までという、人生において最も活動的な時期にあたっていた。本書を読むと、ヒューマニズムに溢れた青年が理想と現実との間で悩んだり、人を助けるために危険を顧みず奮闘したり、待遇改善のため地味な事務仕事に勤しんだりといったウィリスの息づかいが感じられるようである。そんな中で、ようやくつくり上げたのが鹿児島での生活だったのだ。

彼が主催した西洋医院は鹿児島医学校兼病院となり、西南戦争での中断ののち、鹿児島県立医学校、鹿児島県立病院を経て現在の鹿児島大学医学部へと継承されている。本書は絶版状態にあるが、少なくとも鹿児島ではもっと読まれるべき本であろうと思う。

青年ウィリスの生き様が感じられる良書。

2017年9月8日金曜日

『薩摩国反乱記』マウンジー著、安岡 昭男 補注

外国人の目から見た西南戦争の記録。

本書は、西南戦争の当時、イギリス公使館書記官として日本に駐在したオーガスタス・H・マウンジーが、次の任地であるギリシアで執筆したもので、原書はロンドンで1879年に公刊された。

西南戦争は明治10年すなわち1877年に起こったから、本書はそれからたった2年後に公刊された同時代史料であり、日本語で書かれた記録も含め、西南戦争についてまとめられた本としては最も古いものの一つである。

明治政府から西南戦争の正式な記録『征西始末』の編纂を依頼されていた史家の重野安繹(しげの・やすつぐ)は、『征西始末』の第1稿を書き上げた時にこの『薩摩反乱記』を入手し、その歴史記述に大いに刺激を受けたという。

本書では、反乱の様子を述べるだけでなく、反乱に至る歴史的・政治的・社会的背景を丁寧に紐解いており、幕末維新期の政治過程を要領よく折り込んでいる。その頃の日本の史書といえば伝統的な編年体とか紀伝体といったような形で記述していたから、出来事の羅列ではなく、その背景から説き起こすという立体的な歴史記述に重野は注目したのである。

しかしながら、伝統的な漢文での史書編纂にこうした新手法を生かすことはできず、実際には『征西始末』の最終稿に本書はあまり影響を与えてはいないらしい。とはいっても重野が本書を非常に高く評価していたことは間違いないとのことである(本書「解題」による)。

個人的に興味を抱いたのは、マウンジーが本書を書いたことそのものについてである。彼はどうして、公的記録でもなんでもない本書をわざわざ執筆し、公刊したのであろうか。イギリス人にとっては後進国の内紛にすぎない西南戦争について、なぜ熱く語ったのだろう。おそらくその答えは、マウンジーは西郷隆盛に心酔していたからだろうと思う。序文において彼はこう述べている。
「西郷は、その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである。この反乱の物語は、私としても、記録に止めるに値すると思われるのである。」
実際、本書は、かなり西郷に同情的に書かれている。しかし概ね筆は公平であって、明治政府の批判についても感情的な部分はない。こうしたところは公使館の書記官らしい堅実さである。また西郷に同情的であるとは言っても、反乱の意図は「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」として、決して進歩的ではなかったことを指摘しているし、薩摩人全体に対しては結構厳しいことが書いてある(例「すべて倨傲無知は、将校、賤卒に至るまで、薩人の心理に侵入せしものにして…」)。

本書の翻訳は明治当時のものであるため文語文であり、慣れない人には読みやすいものではないが、内容は非常によくまとまっており決して理解に苦労するようなものではない。重野安繹が激賞したように歴史記述として優れ、西南戦争史の嚆矢として大きな価値があるものと思う。

2017年9月7日木曜日

『コシヒカリ物語―日本一うまい米の誕生』酒井 義昭 著

コシヒカリ誕生の謎を追う本。

コシヒカリは、太平洋戦争末期から終戦直後にかけての食糧難の時代に開発された。コシヒカリというと美味しいお米の代名詞となるくらいであるが、収量は少なく病気には弱く、栽培はかなり難しい。食糧増産が叫ばれた時代に、このような美味しいだけが取り柄の品種が生まれたのは一体どうしてか。

本書は、この疑問を出発点として、コシヒカリが日本の水稲の作付面積第1位になるまでに普及したその歴史を紐解いていくものである。

その答えを一言でまとめてしまうと「偶然であった」としかいいようがないようだ。

コシヒカリの元となった「農林22号×農林1号」という交配を行ったのは新潟県農業試験場の高橋浩之。終戦間際のことであり、人員も設備もない中での非常に苦労した交配であったが、高橋はこの交配種の行く末を確認することなく転任している。

この交配種を受け継いだのは長岡農事改良実験所の仮谷 桂と池 隆肆(たかし)。しかし、この交配種はそもそも農林1号の耐病性を強化するという育種目標で作られたものだったのにも関わらず、耐病性がよくなかったため有望視されず、当時新設された福井農事改良実験所に送られることになる。新設のために実験材料が不足していたからだった。

福井でこの交配種を担当したのが、水稲の育種は全く素人だった石黒慶一郎。福井農事改良実験所は貧弱な体制で、水稲育種に詳しいのは所長一人という状態だった。当然に石黒は水稲育種に行き詰まり、気晴らしに農民小説などを書いていたほどだった。だがこの交配種の雑種第5世代から「ホウネンワセ」と呼ばれることになる割合優秀な系統が出てきた。 一方、後にコシヒカリとなる系統は、ここでも有望視はされていなかったが、なぜか捨てられもしなかった。

なぜ有望でない系統を捨てなかったのか、ということについては石黒自身も分からないらしい。著者の推理では、ホウネンワセを生みだして精神的余裕が出ていた時期だったので、少しくらい欠点があっても捨てないでおこうという心理が働いたのでは、ということである。ちなみにこの時まで、食味の試験は一切されていない。熟色がよいということは評価されていたが、味が美味しいから残されたというわけではないのである。コシヒカリは、美味しいということを除けばさしたる長所はない品種なのであるが、そんな品種が食味検査によらず生き残っていったということ自体が不思議なのである。

後にコシヒカリとなるこの系統は、「越南17号」と名付けられた。だが仮に系統名がついたとしても、これを自治体が奨励品種として採用しなければ品種として登録もされない。試験のために各地に配布された「越南17号」だったが、ほとんどの試験地では落第点で、これを僅かに有望と認めたのは新潟と千葉のみであった。ここで「越南17号」を拾ったのが、新潟県農業試験場の杉谷文之だ。杉谷は総スカンで反対をくらうなか、「越南17号」独断によって新潟の奨励品種にしたのである。

杉谷はどうやら「越南17号」の食味の良さは割合買っていたらしい。しかし杉谷がこれを奨励品種に採用したのは、この系統の優秀さを認めたからというよりも、他の試験場へのライバル意識や功名心、本命の品種までのつなぎとしての活用などいろいろな思惑があってのことだった。ここは非常に人間くさいところであり、おそらく、杉谷のようなワンマン場長が非合理的な判断によって採用するのでなければ、「越南17号」は奨励品種に採用されていなかった。何しろ、「越南17号」=コシヒカリの真価には、誰もその時気づいていなかったのだ。その時は、病気(イモチ病)に弱く、倒伏しやすく、収量も上がらないという欠点ばかりの品種だと思われていた。

こうして様々な偶然によって世に出たコシヒカリだったが、このような欠陥だらけの品種は当然あまり採用されなかった。だが試験場がコシヒカリの欠陥を克服するような栽培法を確立しようと努力したこともあって、新潟県魚沼地方がこの品種の栽培に取り組み始める。実は、魚沼地方の人も、コシヒカリの食味の良さに惹かれたわけではない。コシヒカリの耐冷性に注目し、山間部の低い気温でも生育がよく収量が期待できるという点に惹かれたのであった。

この時代は食管法があったから、米は国が全量定額買取を行っていた。たとえどんなに美味しい米でも、不味い米でも価格は同じであった。だから、美味しい米を作ろうとするインセンティブはほとんどないのである。収量が大事な時代だった。そんな時代に、味だけが取り柄のコシヒカリは様々な偶然に支えられて誕生したのである。

時代が移り食管法が緩和され自由流通の米が出るようになると、コシヒカリの人気は急上昇した。 食味が極上に優れているのだから当然だった。こうなると、栽培が難しいという欠点は、様々な人の努力により克服されていった。コシヒカリが世に出たのは偶然だったが、それが普及し、最大の栽培面積を誇るようになったのは多くの努力の成果であり、ある意味では必然であった。

著者は農業関係に詳しいジャーナリスト。本書の前半はコシヒカリ誕生の謎に迫っていくというミステリー風の筆致であり、水稲の育種という地味な素材を使いながら引き込まれる展開である。後半はコシヒカリが普及し、日本一の座を確立するまでの話。後半は統計的なものが多く人間ドラマには欠けるが、コシヒカリの歴史を多面的に扱っており勉強になった。

コシヒカリの誕生を通して水稲の近代史を垣間見る良書。

2017年8月16日水曜日

『あのころはフリードリヒがいた』ハンス・ペーターリヒター著、上田 真而子 訳

ユダヤ人迫害をテーマにした児童文学。

これは大人にとって、読み進めるのが痛々しい本である。というのは、主人公の幼なじみ、ユダヤ人のフリードリヒ少年を待ち受ける過酷な運命を知っているからだ。のっけからその悲劇を予感して、ページを捲る手を止めたくなるような本だ。

主人公「ぼく」とフリードリヒは同じアパートの階上階下に住む関係で、いつも仲良く遊んでいた。フリードリヒのお父さんは公務員、「ぼく」のお父さんは失業者だったが、そんなことは幼い二人には関係なかった。

ドイツ政府がユダヤ人に不利な政策を矢継ぎ早に打ち出していく中でも、「ぼく」とフリードリヒは親友同士であり、決して、フリードリヒがユダヤ人だからといってからかったり、いじめたりすることはなかった。「ぼく」のお父さんもお母さんも政府のユダヤ人迫害には批判的で、フリードリヒ一家との友好的な付き合いを続けていた。

しかし社会はどんどん動いていった。フリードリヒのお父さんは仕事を辞めさせられる。ユダヤ人が公職に就くことが禁じられたからだ。次の仕事は見つかるが、徐々にフリードリヒの一家は貧しくなる。一方で、「ぼく」のお父さんは「党」に入党する。そのことで就職でき、また党員だからということで昇進も早くなる。

また、「少年団」が組織され、反ユダヤ的な活動が子どもの間でも組織的に行われるようにもなった。「ぼく」は少年団に入り(入らされ)、フリードリヒも少年団に憧れるがその活動内容を知って絶望する。「ぼく」は反ユダヤ政策に対して共感もしていないが、強く反発しているわけでもない。ただ、フリードリヒとの友情は変わらないというだけで。

やがてユダヤ人は、ありとあらゆる権利が制限されていく。そんな中、「ポグロム」が行われるようになる。ポグロムとは、ユダヤ人に対して行われる暴動・破壊・虐殺行為のことである。こうしてユダヤ人の住居が突然襲われ、略奪や破壊が行われた。もちろん警察はこれを黙認していた。そしてフリードリヒの家も(つまり「ぼく」のアパートの階上だ)ポグロムによって破壊され、フリードリヒのお母さんはこの時の怪我によって死んでしまう。

一方、「ぼく」は、ユダヤ人排斥の気持ちはなかったにも関わらず、 ポグロムで浮かれたように破壊行為をする人波に混じり、(フリードリヒの家に対してではないが)なんとなく破壊に荷担してしまう。ユダヤ人学校の机や勉強道具を面白半分で壊してまわったのだ。ここは物語中の白眉だと思う。ポグロムが行われるには、ユダヤ人への強い差別意識など必要なかったのだ。ただ、暴力行為が黙認されさえすれば、何でもいいから破壊したいという衝動が利用されていたのだと思う。

こうして、もはやユダヤ人は隠れるようにして生きるしか術がなかった。フリードリヒの家は夜でも明かりのつかない家になった。そして、フリードリヒだけは外出中だったので見逃されたが、一家は強制的に連行された。しかし一人残ったフリードリヒの命運も尽きていた。爆撃が迫り周辺の住民は防空待避所へと避難したのに、ユダヤ人のフリードリヒは入れてもらえなかったからだ。

爆弾がそそがれる中、フリードリヒは防空待避所へ入れてもらえるよう嘆願する。ユダヤ人であっても、こんな時には入れてあげたらいい、と多くの人が言う中、責任者のレッシュはあくまでも拒否してフリードリヒを外に追い出す。レッシュは、「ぼく」やフリードリヒの住むアパートの大家で、前々からフリードリヒ一家を追い出したかったのだ。爆撃によってフリードリヒは命を落とす。翌朝、その死体を足蹴にしてレッシュが言う。「こういう死に方ができたのは、こいつの幸せさ」

「ぼく」はいつでもフリードリヒの味方だし、その他の登場人物にもユダヤ人に親切な人は多い。しかしそれでも、ドイツはユダヤ人排斥の動きを止めることはできなかった。たとえ自分のできる範囲でユダヤ人を守りたいと思っても、普通の人には社会の巨大な力に抗うことは無理なのだ。親切でやさしく、正義感に溢れた人が斥けられ、レッシュのような小心翼々とした卑怯な人間が活躍する世界、それが戦争だった。社会はひっくり返ってしまったのだ。ひっくり返った世界では、ごく当たり前の、人と人とのいたわりなど、何の力も持たなくなるのだった。

私たちはもう二度と、世界をひっくり返らせてはならないのだ。

2017年8月15日火曜日

『天皇陵の研究』茂木 雅博 著

天皇陵についての研究を一般向けに紹介した本。

本書は、著者が1992年に出版した『天皇陵の研究』(学術書)を、一般向けに仕立て直したものである。

本書では、まず幕末の「帝陵発掘事件」が取り上げられる。天皇陵とされた古墳を盗掘したという罪で、数人が死刑に処された事件である。それまでは、古墳の発掘というのは別に禁止されておらず、宝探し的に掘られることが多かったそうだ。にもかかわらず、幕末になって急に古墳の盗掘が重い罪とされ、何人もが市中引き回しの上磔という極刑に処されたのである。これは、万世一系の天皇制を確立するにあたり、古墳を天皇陵と治定し聖域化したことの象徴だという。

さらに、神武天皇陵の創出についてもやや詳しく顛末が述べられる。おそらくは実在していなかったと思われる神武天皇の山陵を、政府がどうやって「創り出したか」ということだ。明治政府は「神武の創業に復る」を旗印にしたが、国家の創設者としての神武天皇は近代天皇制の中心であった。そのためのモニュメントとして神武天皇陵を急ごしらえで治定するのである。それまでも神武天皇陵の研究(探索)がなかったわけではないが、神武天皇陵は学術的な根拠を差し置いて政治的な都合で治定された側面が強い。

また、さほど詳しくは書かれていないが、神武天皇陵に関して興味を惹いたのは、明治初期に奈良県を治めた(県令、追って知事だった)税所篤(さいしょ・あつし)のことである。税所は薩摩藩出身。立場を利用して美術品の収集やその販売を秘密裏に行っていたことが疑われており、ボストン美術館にある天皇陵の遺物は税所が不法に(偶然を装って)行った山陵の発掘によるものだと考えられているが、ここで取り上げられるのはその話ではない。

税所は、明治13年に神武天皇陵が位置する畝傍山を公有化(買収)し、天皇陵の聖域化に一役かっているし、おそらくは神武祭の実施などにも関わっているだろう。また、神武天皇即位宮にあたる「橿原神宮」の創建が一般の行政では考えられないほど急速に進んだことを鑑みると、主導していたものと思われる。要するに、税所は奈良盆地の聖域化を考えていたようなフシがある。橿原神宮はその後国家により特別待遇を受けて拡大の一途を辿る。このあたりで税所がどういう役割を果たしていたのか非常に気になるところである。

このほか、本書では民衆と古墳の関わりの問題、古墳の考古学研究の概観、そして天皇陵の公開をめぐる議論が紹介されている。「公開をめぐる議論」のところでは、公開を求める学界に宮内庁が国会で答弁した議事録が引用されているがこれはなかなか面白い。「別に秘匿しているわけではない。求めがあれば公開する」と言いながら、のらりくらりとしていつまでたっても天皇陵の公開を渋る宮内庁の雰囲気がよく伝わってきた。

本書は、学術書を下敷きに書かれているため史料の引用が多く、細かい特定の話題について深く述べる形で書かれており、必ずしも天皇陵にまつわる問題の全体像を把握できる本ではない。天皇陵研究の紹介の部分でも、各時代での天皇陵の治定が表となってたくさん紹介されていたが、こういうのは一般の読者は熱心に比較対照するものではない。

というように、一般向けに書くならもう少しかみ砕いて説明できるのではと思う部分もあるが、学術書の雰囲気を残したまま割と気軽に読める天皇陵の研究本。


2017年8月11日金曜日

『天皇陵の近代史』外池 昇 著

「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。

天皇陵とは、いうなれば天皇の墓とされた古墳のことである。すなわち、天皇陵というものを考える時、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定したプロセスがいかなるものであったかが問題になる。

このプロセスに大きな影響を与えたのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれるものだった。これは、宇都宮藩(実質的には筆頭家老だった戸田忠至(とだ・ただゆき)が企画)が歴代天皇陵の修復を幕府に対して建白したもので、建白の段階で宇都宮藩は山陵の現状を見たこともなく、いわば机上の空論として修陵を企図したのであった。

それどころか、修陵をしようにも、まず最も重要視された「神武天皇陵」がどの古墳にあたるのかも分かっていなかった。であるから、「文久の修陵」においては、まず天皇陵を治定することから始まったのである。そして、このときの修陵の方針が、拝所の設置や立ち入り禁止措置、周濠の水の利用許可など、後の宮内庁の陵墓管理の原型を形作ることとなった。

それでは、多く古墳が位置する畿内から遠く離れた宇都宮藩が、どうして修陵の建白を行ったのだろうか? 建白では、要するに「国威発揚になるから」といったことが述べられており、修陵事業は幕末の勤王思想の高まりに呼応したものであるらしい。また当時の状況を考えると、公武一体の象徴として天皇陵を利用しようとしたのだろうし、神武天皇の修陵直後には山陵に対して攘夷の祈願祭が行われていることを見ると、天皇陵が祭祀の中心として構想されたのかも知れない。しかし、実際のところなぜ宇都宮藩が建白を行ったのかは謎と言わざるを得ない。

「文久の修陵」では、歴代天皇の陵の比定を大急ぎでやったことから、学術的にあやしい比定がたくさん行われることになった。幕末から明治にかけて、天皇陵の比定は意外と二転三転しているところも多く、一度決まると凍結されたというわけではないが、基本的にはそうした間違った比定はその後も修正されなかった。というか、古墳の被葬者が誰であったかという問題は、古墳自体に墓碑銘などが残されていない以上、決定できるようなたぐいのものではない。にも関わらず、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定されてしまうことは、その決定の当否に関わらずゆゆしき問題である。

本書ではこのほか、古墳が周辺の村落にどのように利用されていたか、また山陵にまつわる祟り(穢れ)の問題といったことが取り上げられている。天皇陵は、修陵の前は単なる古墳(というより山)であったのだから、そこに村落があったり、年貢地が設定されていたりした。それを修陵事業によって立ち入り禁止にすることは、村落の生産の場を奪うことにもなったのである(しかし、それには意外と軋轢はなかった)。

その他、 陵墓へはたびたび盗掘があったこと、地方官僚(県令)が陵墓に対して抱いていた強い関心といったものにも触れられる。税所篤(さいしょ・あつし)と楫取素彦(かとり・もとひこ)がその例として挙げられているが、これについてはもう少し多くの例と共に詳しく知りたいと思ったところである。宇都宮藩の建白もそうだが、地方政府にとって天皇陵は一体どのような意味をもつ場所であったのか、ということに強い興味を抱いた。

本書では、陵墓そのものの歴史ももちろん、「陵墓がどのように扱われてきたのか」という視点でも歴史が語られ、私にはむしろそちらの方が天皇陵にまつわる問題を考える上で重要なアプローチと思われた。天皇陵とは、日本人にとって何だったのだろうか? なぜ「文久の修陵」は行われたのだろうか? 大急ぎで「神武天皇陵」を創り出したのはなぜだったのだろう?

天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。


2017年8月9日水曜日

『生活の世界歴史(9) 北米大陸に生きる』猿谷 要 著

アメリカ的価値観の成立と変容を、黒人への差別など暗部の側面を取り上げて説明する本。

アメリカ的生活文化を作ったのは、WASP(白人-アングロサクソン-プロテスタント)の人たちだ。ヨーロッパから来た移民たちは、広大なフロンティアを前にして何でも手作りしていった。生活道具だけでなくデモクラシーまでだ。この経験は、アメリカ人の特徴的な気質を形作った。すなわち、「粗野で荒々しいが、独創的であり、自由と平等を信じ、自信にあふれた楽天的な性格」である。また教会がコミュニティの中心をになっていたことから、かなり信心深い社会が出来上がった。

しかしその裏では、黒人へのおぞましい搾取があった。白人は、黒人奴隷に対しては生殺与奪の権を持ち、些細な問題が起こるや凄惨なリンチが繰り広げられた。リンチの観覧のためチケットが販売され、特別列車が運行されるほどであった。リンチによってむごたらしく死ぬ黒人を、白人は喜んで見ていた。こと切れた黒人の心臓が取り出され、切り分けられて土産物として販売されるほどだったという。

差別、という言葉では表すことができないほどの、敵愾心と軽蔑があった。奴隷という経験は、もちろん黒人たちにぬぐい去ることが出来ない深い傷を残したが、一方で白人の方にも道徳的な頽廃をもたらした。取るに足らないミスを咎め、罵声を浴びせながら奴隷を鞭で打ち続ける親を子どもたちは見ていた。切り裂かれた傷からは血が吹き出、奴隷の子どもが母親を許してくれるよう泣いて縋りついても、農園主は一層ひどく鞭を振るった。そういう悪魔のような所業を日常的に見ながら、真っ直ぐに育つ人間はいない。

このような社会で育った人間には、容易には消せない差別心と、統御できないほどの攻撃性が刻み込まれていたに違いない。

一方で、奴隷は重要な労働力だった。特にアメリカ南部の州では奴隷に農園労働をさせていたから、安価に働かせられる黒人奴隷は必需品だった。それほど奴隷労働を必要としなかったらしい北部では、相対的には奴隷は貧困であったらしいが、徐々に黒人の人権が認められていた。南部と北部の対立は、やがて南北戦争を引き起こす。奴隷制度があったのはアメリカだけではないが、「国内の奴隷所有勢力が奴隷を解放しようとする勢力と国論を二分して対立し、足かけ五年、両方あわせて六〇万人の人命を犠牲にするような大戦争に突入した国は、世界のなかでただアメリカ合衆国あるのみである」とのことだ。

また、アメリカほど拝金主義と暴力がのさばった国も珍しい。拝金主義はともかくとして、本書ではアメリカの暴力的体質が様々な例を引いて説明される。暗殺された大統領の多さ、マフィアの暗躍といったものはよく知られているし、銃犯罪の多さも改めて言うまでもないだろう。だが極めてアメリカ的だと思ったのは、不法な、あるいは卑怯な暴力を使っても勝利した方を称讃しがちな所である。アメリカの領土拡張には数々のウソと暴力があるが、それらが批判されることはなく、平然と欺瞞がまかり通っている。

そうしたウソと暴力の向かった最初の先がインディアン(と本書では表記)である。インディアンと入植者の関係は最初は友好的で、むしろインディアンの助けがなくては入植がおぼつかなかったくらいであるが、次第に移民の方が多数派になり、インディアンが邪魔になってくると、インディアンと平和的に結んだ多数の条約を平然と無視して虐殺を行い、どんどん不毛地帯へと追いやっていった。

だが、こうした建国からの数々の非道は、やがて白人自身にも認識されるようになってくる。黒人の権利を守るため、白人も危険を顧みず活動をするようになった。こういう所が、日本人にはないアメリカ的な行動なのかもしれない。1960年代には黒人革命が起き、黒人の人権は認められた。インディアンに対しても、その再評価が進んでいる。かつて絶対的であったWASPの価値観は、新しい世代から挑戦を受け、反省を迫られている。

こうしたアメリカの動向を著者は3つの仮説としてまとめている。第1に、既存のアメリカ的価値観は第二次大戦後に完成し、それは建国以来進んできた道の当然の結果だったということ。第2に、そのアメリカ的価値観は1950年代を頂点として早くも凋落しつつあること。第3に、その価値観の崩壊とあわせて、混沌の中から既に新しい価値観が生まれようとしているということ。

この仮説は、本書では特に検証されていない。だが、こうした仮説を下敷きにして、本書では差別、暴力、虐殺、貧困といった、通常のアメリカ史ではあまり取り上げられない暗部を軸にアメリカ的価値観、アメリカ的生活文化を説明しており、非常な迫力がある。

裏面から見るアメリカ論の良書。

※原題は『新大陸に生きる』だが、文庫化の際に『北米大陸に生きる』に改題された。