2018年4月7日土曜日

『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著

西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。

橋川文三は西郷隆盛の評伝を書くように依頼された。しかし西郷をどう評価していいのか、そして既に汗牛充棟する西郷本がある中でどういう視角から描けばこれまで見過ごされてきた一面が表現出来るのか思案する。そしてそのヒントを見つけるため、様々な人と対話し、小文をまとめた。本書はそうして出来上がったものである。

本書で最も面白かったのは島尾敏雄氏との対談である。周知の通り西郷は二度遠島に処されている。一度目は大島に、二度目は(徳之島を経て)沖永良部島に。この島暮らしの中で西郷はどう変わったのか。

島尾によれば、一度目の島暮らしは西郷をさほど変えなかった。失意の中で荒れた生活をしていたし、大島での生活は幽閉に等しい感覚だったという。だから島から呼び戻された時は当然喜んだ。

しかし沖永良部島での暮らしは違った。土持政照という地元の利発な青年と出会って慕われ、幽閉の形はとっていたが悠々と過ごすことが出来た。また絶海の孤島は、逆に恰も世界の中心にいるかのような感覚を催したのではないかという。そうして著者は、西郷は本土へ帰る気が失せたのではないか、と推測する。少なくとも、本土の方で繰り広げられている幕府と勤皇派の争い、そういうものが何か違うんじゃないか、そう思うようになったのではないか。ここで西郷の思想は他の志士たちとは違うものへと転化したのかもしれない。

本書の半分は、征韓論をどう考えるかということと、それに付随して西南戦争をどう評価するかという議論に当てられている。征韓論については、基本的に毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書) の立場に賛成している。一方、西南戦争についてはこれといった見方は提出していない。封建主義の揺り戻しであり反革命と見るか、それとも明治維新の理想が現実には骨抜きになっていく中であくまで明治維新の革命を貫徹するための戦いと見るか、それすらも決められないという。

結局、西郷を評価することは、近代日本の歩みを評価することと等しい作業となる。あまりにも対象が大きく、つかみどころがない。著者は結局、病気(パーキンソン病)のためもあって、遂に西郷隆盛の評伝を書き上げることはなかった。本書は、この書かれなかった評伝のために準備した7、8年間の思索の記録である。

西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。

2018年4月6日金曜日

『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著

小林秀雄の語る本居宣長。

本書は、本居宣長の評伝ではない。宣長の仕事が時系列的・体系的に語られるわけでもないから、宣長を知らない人には読みにくい。本書は11年半にも及ぶ連載によるもので、著者自身がどこに着地すればよいやもわからないままに書き綴ったもののように思える。いうなれば、本書は「本居宣長研究ノート」とでもいうべきものだ。

この長大な作品において、著者が執拗に主張したこと、それを一言で言うなら、「宣長の研究は、古事記に書かれた荒唐無稽な神話をそのまま首肯するところが弱点だったと思われているが、これはむしろ宣長学の核心であり、弱点どころかこの態度こそが古典文学の読解に必要なものだったのである」とでもなるだろうか。

このような例が本書中に出されているわけではないが、話を簡単にするためにフランス文学に譬えて、この主張を少し解説してみよう。

フランス文学を真面目に研究しようとすれば、誰しもフランス語を習得する必要があると思うだろう。日本語への翻訳作品によっても、フランス文学の一端を捉えることはできるし、普通の人が楽しむ分には十分だ。しかしその機微、空気感といった微妙な芸術の襞を理解しようと思ったら、はやりフランス語を習得する意外にはなさそうだ。

その上、例えば18世紀のフランス文学を研究しようとすれば、18世紀の風俗や社会情勢、その当時の人々の心のありようがどんなだったか理解しなければ、本当に文学作品を理解したことにはならないだろう。当時の人が、どんな気持ちでその文学を読んだかということが自らの中に再現できて初めて、作者の意図や表現の価値が分かってくる。

こういったことが、『源氏物語』や『古事記』を読解する上でもいえるのである。『古事記』を本当の意味で読もうと思えば、『古事記』が生まれた社会のことを理解し、その言語を習得して読まなければならない。象徴的ないい方をすれば、『古事記』を「翻訳」せずに、『古事記』当時の人のこころになりきって読む必要がある。

ところがこの『古事記』当時の人のこころ、というのがくせ者である。この頃の言葉は、どこにも残っていないからだ。 『古事記』そのものは、当時の人の言葉ではない。これは変則的な漢文で書かれているが、当時の人が漢文でしゃべっていたわけはないからだ。よって、『古事記』として残された変則的な漢文から、まず『古事記』当時の肉声を再現するという作業をしなくては、そもそも『古事記』を「読む」ということすらできないのである。これが、宣長の『古事記伝』という決定的な『古事記』研究であった。

宣長は、言語というものは翻訳が不可能なものだ、と考えていたのではなかろうか。凡百の古典文学研究家が、古典に「何が」書かれているか理解しただけでそれを読解したと思ったのとは対蹠的に、宣長は「どう」書かれているかまで理解しない限り古典を読めたとは考えなかった。意味を摑むだけならば「何が」書かれているかだけで十分だ。だが言語の本質は意味のみにないと宣長は考えていたようだ。むしろ「書きざま」の方が重要であると彼は考えていた。そして「書きざま」を味わうには、当時の人のこころになりきるしかないというのだ。

しかし、もはや後代の人間には「当時の人のこころ」がどんなだったか分からない。なぜなら、日本語は「漢字」を受容したからだ。漢字のない日本語など、今になっては考えられない。そして受容したのは「漢字」だけではない。「漢字」を受容したことで、必然的に日本語には中国風の観念が導入されたはずだ。それを宣長は「漢(から)ごころ」と呼び、『古事記』を理解するためにはそれをどうしても排除しなければならないと考えた。

というのは、神話は漢字がないころから口伝えで生き残ってきたはずである。漢字を知らない人々によって語られてきたはずである。だから宣長は「漢ごころ」を棄て、古代人になりきって古典を読むという、知的な荒行ともいうべき読解を試みた。彼は実際に、古代人になりきったと信じた。

しかしこの読解方法には、決定的な弱点が内在していた。それは、「古代人になりきる」以上、古典に対する批判精神を失うことを意味していたのだ。現代の科学では、古典の文献を研究する場合には必ずテキスト・クリティークすなわち「史料批判」をする。史料自体の正当性や妥当性を批判検証することだ。文書というものは、現代においてすら現実の社会を丸のまま写したものではない以上、こうした作業を経なくては、古代の本当の姿は見えてこないのである。史料をそのまま事実だと信じれば、文辞によって飾った歴史しか理解し得ないだろう。

一方で、史料批判を行うことと、文学を理解することは別の次元の話である。例えば、「吾輩は猫である」という文章を味わうことは、その猫が実在したかどうかというようなこととは全く関係がない。「私は猫です」でも「拙者は猫でござります」でもなく、「吾輩は猫である」という表現をとっていることを味わうのが文学を理解するということの一端であって、これを"I am a cat."とだけ理解して、その猫の実在性について議論しているようでは、いつまでも文学を理解することはできまい。

そういうすれ違いが、上田秋成と本居宣長との間に、後に「日の神論争」と呼ばれる論争を引き起こした。秋成は神話がそのまま事実とは考えられないという常識的なことを述べ、宣長は神話は全てありのままの事実だと反駁にならない反駁をした。今日から見ると、筋の通った主張をする秋成に対して、滑稽なまでに狂信的な宣長と思われるのであるが、小林秀雄は、あくまで宣長を擁護するのである。

私が本書で理解できなかったところはそこである。著者も、この論争は議論の土台からすれ違っていて、いわば議論の体を成していないということは認めている。しかしそれでもあくまで宣長を擁護していて、秋成については文学に対する理解が浅いとでもいわんばかりの態度である。だが議論がすれ違っている以上、宣長を擁護するにしても秋成の「史料批判」も首肯することはできたはずである。いやむしろ、宣長の研究態度は言語の本質にまで通暁した徹底的なものであると称揚するにしても、やはり神話をそのまま事実と認めることは科学的ではなかった、と批判すべきだったように思う。

宣長の態度は科学的なものではなかったが、彼の文学上・言語学上の業績は失われるものではないし、実際に宣長の古事記訓は、記紀神話が事実として認められなくなった今でも通用している。であるから、著者が執拗といえるほどに宣長を擁護する、その気持ちが私にはよく分からなかった。ただ、作品と同一化してしまうほどに言葉の世界に没入した宣長を見習って、小林秀雄も、『古事記伝』と同一化しようのであろう。一切の批判を棄てて、その作品を味読することによって作品の真価を体得しようとしたのだ。

本書は、長大で引用も多く、論旨は不明確であって、表現が文飾に流れがちであり、決して端正な評論とは言い難い。重複や繰り返しも多く、著者自身が何をいおうとしているのかよく分かっていないような箇所もある。一方で、言語や文学作品といったものに対して真摯な思索が繰り広げられており、その重複や論旨の不明確といったことは、言語という捉えがたいものをどうにか捉えようとしている苦闘の跡のように見える。

かなり難解であるが、宣長の言語に向かう研究態度について徹底的に思索し尽くした労作。

2018年2月13日火曜日

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著(その2)

(前回からのつづき)

第6章「矢野玄道と学校問題」

国学による国民的な学校を作りたいという構想を抱き、その実現に邁進したのはなんといっても矢野玄道(はるみち)であった。

伝統的神祇道家である白川・吉田両家も国学による学校を設立することは幕末から企図しており、特に白川家は慶応3年に学寮を設立している。吉田家はこれに対抗し、本来はあまり好ましいと思っていなかった平田派を取り込むため矢野を学頭に招いて学館設立運動に乗り出した。 なおこの周旋には薩摩藩が動いていたらしい。吉田家と薩摩藩には密接な連絡があったらしく、薩摩藩はその廃寺政策を強力に進めるためにも吉田家を主とした神祇道復古に期待を寄せていた。要するに、吉田家と薩摩藩の政治的利害が一致したため矢野を担ぎ出したということのようだ。

こういう経緯であったためか、やがて矢野は白川家・吉田家の両家ともに神祇行政から排除すべきと考えるようになるのだが、ともかくこれが矢野が学校問題に手をつける端緒となり、維新後、矢野は学制取調を命ぜられることになる。

矢野ら平田派国学者は、明治政府の初期神祇行政で重んぜられたが、津和野派との主導権争いに破れ、やがて本務とも言うべき神祇事務行政からは遠ざけられ、学校設立の事務へと追いやられていく。だが矢野にとっては、学校問題の方がより熱心だったのでこれは本人の希望に沿ったものでもあったかもしれない。

ともかく、明治政府は学制立案という最初の教育・学校行政を矢野玄道、平田鉄胤、玉松 操という三人の平田派国学者に一任したのであった。三人は内国事務局に籍を置き、神祇行政とは無縁のところで(しかし彼らの構想が国学に基づくものであることは言うまでもない)学制立案に情熱を傾けた。

ところがこの努力は、政府からは評価されるどころかほとんど無視された。その内容が漢学や儒学を無視した国学びいきのものでありすぎたからだ。

そして矢野らの構想が無視された形で、公家向けの教育機関である学習院が開校され、 内国事務局は廃止となり、矢野たちは自然廃官となって学制取調は宙に浮いた格好になった。

とはいっても、政府は一度は国学者たちに学制立案を一任したほどであったから、さほど重きを置かなくなっていったとはいえ、矢野たちには追って改めて学校掛を命じて彼らは学校設立に向けて運動を再出発させた。

しかし彼らの構想は、京都に国学主体の大学校を設立し、さらには諸藩にもその分校を設けるという壮大なもので現実性がなかった。開明路線へと走っていく明治政府にとって、このような構想は滑稽ですらあったろう。政府が彼らの構想を実現する気がないと悟るや、平田は岩倉や政府首脳に対して建白書を盛んに出したが、その建白にはもはや政府を説得する力はなかった。

政府は江戸において旧幕府の医学所や昌平学校を復興し、また学校問題については岩下方平・長谷川昭道へ軸足を移した。そして長谷川の意見が受け入れられ、明治元年、京都に皇学所・漢学所が並行しておかれることとなった。これは漢学を感情論から攻撃して目に余るものがあった国学を牽制し、漢学との政治的なバランスをとったものであって、あくまで国学を最高の地位において教育をしたかった矢野らの構想の挫折であった。

矢野らはこうしたことから自然と政府とは疎遠になり、立場も不安定なものになっていく。

第7章「皇学所・仮大学校と国学者の動向」

平田派国学者にとっては不本意であった皇学所の設立であったが、彼らはそこを立派な「天朝の学校」にしたいと意気込んだ。しかるにそこで行われた教育がどうであったか。

結論的に言えば、皇学所は学校規則やカリキュラムの面では立派に見えこそすれ、その内容はほとんど伴っていなかった。これを主導した矢野は自身が勉学に打ち込み続けた人間であったから、普通の人に必要な教育が何かということを考えていなかったようだ。

さらに大きな問題は、皇学所が漢学に対して敵意を持ち、講義内において漢学への誹謗中傷を繰り返したということだ。皇学所・漢学所という横並びの存在であったことがライバル意識を生み、元来そうであった以上に対立の構図をもたらしたのかもしれない。

もう一つは、皇学所の中心であった玉松操をその代表として、守旧的意見をどんどん強くしていったということがある。これには、国学を漢学や洋学と差別化し、「皇朝」の伝統を継承しようとする意識が働いていたように見える。このため、授業は烏帽子・直垂を着用して受けることにすらなっていった。しかしこうなると、政府の首脳としてはもはやついて行けない。玉松は岩倉や中御門経之らにとっては師匠格に当たる存在であったが、やがてその間は不調和になっていった。

政府では、東京に大学校を設けてこれに平田派国学の総帥平田鐵胤を抜擢し、皇学所から平田が去ることになった。皇学所は見るべき成果も上げられないまま弱体化していった。そして国学(皇学所)と漢学(漢学所)の次元の低い感情的な争いに辟易していた政府は、両校を廃止・統合し、明治2年12月、京都に仮大学校を設立させた。

これには、当然のことながら矢野は大不服であったが、多くの教員は素直に大学教官に再任させられたことを喜んだらしい。皇学所は内部からも限界を迎えていたということだ。しかしこの仮大学校の命脈も、一年と持たなかった。

というのは、時代の中心がもはや東京へと移っていたからだ。京都の仮大学校には生徒が300名近くいたが、多くの教授陣は東京へ移らざるを得なかった。強硬な守旧派だった玉松すら、明治3年3月には東京へ移った。さらに6月には、仮大学校の幹部級国学者であった後醍院真柱が宣教使として東京へ引き抜かれた。こうして仮大学校はどんどん先細りになっていった。

その上、国学と漢学の対立は仮大学校にも持ち越されていた。学校が先細りになり予算的にも窮屈になってくるとその対立が表面化し、辞表を出すものが続出。こうして内部の対立によって仮大学校は崩壊した。時を同じくして、京都以上に両派の対立が激化していた東京の大学校も崩壊。東京の大学校が閉校したのが明治3年7月、京都の仮大学校が閉校したのが同8月であった。

大学校で教鞭を執った国学者は、こうしてちりぢりになっていった。そして国学と漢学が抗争し共倒れした果てにひとり無傷で残ったのは、洋学のみであった。

第8章「角田忠行と明治維新」

代表的な平田派国学者である角田忠行の人生について概説的に述べる。

角田忠行といえば、島崎藤村『夜明け前』で「暮田正香」として登場し、主人公青山半蔵と深く関わった人物だ。

角田は天保5年に生まれ、安政2年に平田篤胤の没後の門人となった。門人の中では出色の存在であり、後年、矢野玄道とともに平田家の後見人のような立場にもなる。角田の存在が門人の中で際立つきっかけとなったのが彼が文久2年に著した『古史略』である。『古史略』は古事記の神代7代から神武天皇崩御までの歴史を略説したもので、学問的な価値はともかくとして、同門の中で重要人物と認識されるにはかなり効果があったらしい。角田はこれを著した年、京都へと登った。角田は京都で平田鐵胤の秘書のような働きをした。

角田が世に出たのは、いわゆる「足利将軍木像梟首事件」である。これは角田ら京都でくすぶっていた平田派門を中心とする数人が、等持院に安置されている足利将軍三代の木像の首をはねて三条河原に梟首し、傍らにその罪状を掲げた事件を指す。これは朝廷を軽んじた足利将軍を糾弾することで、幕府への公然たる挑戦を行うものであった。これは計画的犯行ではなく、犯人たちも大事件になるとは思っていなかったようであるが、京都守護職はこれを重く見て犯人検挙に乗り出し相次いで捕縛した。このため角田は信州伊那谷へ逃亡する。

角田は 慶応2年まで信州に潜伏していたが、「米川要人」と名を変えて京都へ上った。彼は山階宮晃親王の知己を得、また薩摩藩の客分として遇された。薩摩藩の家老であった岩下方平が力になったらしい。彼は薩摩藩の京屋敷に身を寄せていたのである。そういう縁からなのか詳細は不明だが、角田は公家の澤為量(ためかず)の家令となることができ、再び志士としての活動を始めた。角田は為量の手足となり、情報収集や志士たちとの連絡にあたった。

為量の嗣子には「七卿落ち」(廷臣八十八卿列参事件)で失脚した澤宣嘉(よしのぶ)がいたが、維新後、角田は復権した宣嘉に従って行動。戊辰戦争で九州鎮撫総督兼外国事務総督を命じられた宣嘉とともに長崎へと下った。この際、長崎に近い島原藩にいた平田派国学者丸山作楽と繋がりができ、丸山・澤・角田の三者には特別に親密な関係が築かれた。また、角田は矢野玄道とも同門の先輩後輩を越えた深い関係があった。矢野を通じて岩倉具視の知遇も得、角田は国学者として押しも押されぬ人物になっていた。

角田は明治2年、矢野が実質的に主催する皇学所に監察として赴任した。矢野にとっては心強い援軍であり、二人は親友としてともに力を合わせて皇学所の運営に取り組んだ。しかし皇学所ははかばかしい成果も上げられず廃止となり、角田は翌明治3年には東京へ向けて出発する。

東京に着いてから暫くは無職で矢野の元で雌伏していたらしい。大学校が廃止されると、矢野は免官になったが、平田派国学者の集団を無視できなかった政府は、矢野、角田など平田派国学者と西周など洋学者を学制取調御用掛に命じた。こうして政府の要職に起用された角田であったが、順調な時間は数ヶ月と続かなかった。

明治4年3月に、角田、矢野、丸山作楽、権田直助、宮和田胤影らが「ご不審の筋これあり」として突然拘束され、それぞれ諸藩お預けの処分を受けた。丸山作楽の征韓の陰謀に関わったというのが名目とされたらしい。これを「平田派国事犯事件」という。この事件の原因・背景はよくわかっていない。祭祀の中心を東京に移そうとした神祇官少副の福羽美静が、それに強硬に反対していた角田・矢野を抑圧するために拘禁させたともいわれるが真相は定かでない。

翌明治5年にはお預け処分が解かれたが、もはや角田は政府の要路からは排除されていた。角田は明治6年に官幣大社賀茂御祖神社の少宮司、翌7年には熱田神宮の少宮司となり、以後熱田神宮の待遇改善に尽力し、神官・神職として活躍、大正7年に85歳で没した。

第9章「近代の熱田神宮と角田忠行」

角田忠行が後半生を掛けて実現しようとした熱田神宮の地位向上運動について述べる。

熱田神宮は三種の神器の一つとされる草薙の剣を祀る神社である。古来より皇室からの崇敬を受けてきたが、それがにわかに強化されたのが幕末においてだった。攘夷祈願のために孝明天皇が熱田神宮に重きを置いたからだ。

維新後、明治天皇もその動きを踏襲したが、元来の熱田神宮の存在感を越えてこの神社の地位向上・待遇改善に与ったのが角田忠行だった。神祇行政・学校設立に挫折した角田は、教部省から熱田神宮の少宮司に任じられた。当時教部省は、伝統ある大社に公家や国学者を大少宮司として送り込み、神社の改革に従事させようとしていた。

熱田神宮に赴任した角田は、大宮司千秋季福とともに同社を特別な神社へと引き上げる運動を行った。彼が赴任しての最初の大仕事は、熱田白鳥古墳・陀武夫古墳を日本武尊の陵として公認・保存させることだった。角田はこのため古墳の由緒を記した『熱田地陵墓考』を著すなど国学者らしい仕事を行い、見事公認を勝ち取った。

しかし角田の仕事は、世襲で熱田神宮に奉斎してきた勢力との軋轢を生まずにはいられなかった。角田の登場は旧社家の世界を徹底的に破壊することも意味していた。明治9年には千秋季福が自殺。その原因は不明であるが角田にとっても衝撃は大きかった。

角田は千秋の自殺後に一時広田神社へ転任したが、明治10年にはまた熱田神宮に大宮司として戻ってきた。角田は周囲との軋轢を抱え、また人望を失いながらも熱田神宮の地位向上のために一層力を入れた。彼の構想は、熱田神宮を官幣大社の列から脱し、神宮(伊勢神宮)と並ぶ「両宮」の地位を獲得することだった。要するに、伊勢神宮と同格にするのが最終目標だった。

彼は国学者らしい考証力と人脈を使い、社殿改造費用を国庫から支出させることに成功し、また熱田神宮を「尾張神宮」として伊勢神宮並の社格に引き上げる企画を政権に認めさせた。しかしこれは伊勢神宮派からの猛反対を受けることになり、また考証の上でも、それほどの由緒を証明することができず、実現の一歩手前で廃案になった。とはいえ角田の運動はかなりの程度実を結び、実際に熱田神宮を伊勢神宮に次ぐ立場まで押し上げた。

こうして角田の宿願は実現することはなかったが、これほどまでに一個人の執念が神社の在り方に影響を与えた例は全国的にも稀有なことであった。まさに近代の熱田神宮をつくり上げたのは、角田忠行その人だったのである。

……

こうして章ごとのメモを書き終えたので、改めて本書の感想について述べたい。

本書は『明治維新と国学者』とは銘打っているが、実際に中心とするのは、概ね慶応3年から明治5年という短い期間の、しかも矢野玄道を中心とする平田派国学者の動向であって、明治維新と国学者の全体像が見えるとは言えない。

平田派国学者の構想は一度は実現したものの、大した成果を上げられないまま頓挫し、その後に手がけた学校問題でも挫折した。そういう次第であるから、本書のみを読むとあたかも国学者たちは政権にほとんど影響を与えられないまま退場したという印象を抱く。

しかし政権に与えた影響という点では亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)ら津和野派の動向も重要だ。むしろ神祇行政を担ったのは津和野派と言ってよく、本書では津和野派についてあまり語られていないのは残念だ。彼らの構想が近代天皇制の創出に大きく寄与しているというのは間違いないと思う。

そして本書では、神仏分離政策と国学者の関わりがさほど述べられていないのも不満な点である。神仏分離政策そのものの成否はともかく、少なくとも日本全国に大きな影響を与えているのは事実であり、国学者たちの構想が実際の政策に色濃く反映した事例であろう。本書がこだわるのは神祇官復興から教部省設立までの行政史であって、それ以外の点については記載が簡潔すぎる。

なお、私が本書を手に取ったのは、明治初期の宗教行政について知りたいということの他に、薩摩藩と国学勢力との関わりについても興味があったからだ。本書には、それについての論考はなかったが、全体を通じてみると次のように言える。

薩摩藩の国学者は、明治初期の段階まではまとまった勢力になっていなかった。むしろ平田派国学者が世に出るための踏み台的な役割を果たした。例えば、薩摩藩出身で近衛家に仕えていた井上石見は蟄居中の岩倉の片腕となり、国学者たちと岩倉、そして薩摩藩を繋ぐ役割をした。神祇官再興は、国学者たちの構想を岩倉が咀嚼し、薩摩藩の力によって実現したものと言える。王政復古までの井上石見の動きはもっと注目されてよい。

また、薩摩藩は吉田家と深い繋がりがあったようである。その廃寺政策を進める上で吉田家をブレーン的に頼りにしていたのだろう。元来は敵対関係にあった矢野玄道を吉田家に引き合わせたのも薩摩藩であり、また潜伏中の角田忠行をかくまったのも薩摩藩であることを考えると、薩摩藩は国学者を厚遇している印象があるが、おそらくその中心にいたのは、家老だった岩下方平(みちひら)だ。

岩下方平については本書では詳しい記載がないが、西郷や大久保らのグループ「誠忠組」において、彼は最も家格が高く名目上のリーダーだった。岩下は平田国学(気吹舎)に入門して国学を学んでおり、平田派国学者と薩摩藩を結ぶ働きをしたようだ。なお岩下は維新後には政府の宗教行政に携わることになる。この他、本書には全く言及がないが、薩摩藩出身で近衛家に仕えた葛城彦一も平田篤胤に弟子入りしており、平田派国学者と近衛家、薩摩藩を結ぶ役割をした。

このように、幕末において薩摩藩は平田派の国学者とは親密な関係があったと考えられる。しかし薩摩藩自身は表舞台には出てきていない。せいぜい後醍院真柱など一部の薩摩藩出身の平田派国学者が活躍する程度である。よってその動きは明瞭には分からず、裏で蠢いている感じがする。薩摩藩が国学勢力のパワーバランスにどのように影響していたのかというのが、非常に興味深いところである。

2018年2月11日日曜日

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著(その1)

国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。

収録された論文は、その対象とする年代が重なりまた前後していて、通読すると時代を行きつ戻りつしている感じがし、重複もかなり多い。そのため、通読する本というよりは、独立した論文集として読む方がよい。

しかし、それは異なった視点から何度も時代の流れを追っているとも言えるので、全体を読むことでより重層的に理解できるという利点もある。私は本書で朧気ながらこの時代の国学者たちの動向が分かってきた。

本書によって強調されるのは、明治初期の段階で国学者たちの構想はある程度実現したが、政治力を早くに失ってしまったためにその構想は一時的なものに終わってしまったということである。それは島崎藤村が『夜明け前』で書いたことと同じであり、本書は『世明け前』の背景を学術的に解き明かすものであるとも言える。

しかし私自身、本書の内容を完全に咀嚼できたとは言い難い。そこで、章ごとにその内容をメモしていくことする。

序章「祭政一致国家の樹立と国学者の動向」

王政復古の基本方針の一つが「神武創業の始めに返る」ことであったのはよく知られているが、この方針の決定にあたり大きな影響力を持ったのが、蟄居中の岩倉具視に国学思想を鼓吹した玉松操であった。そして、実際に明治政府に対してこの方針を貫徹させようとしたのは、同じ平田派の国学者、矢野玄道(はるみち)であった。

だが、2人は岩倉具視以外の政府首脳とは繋がりを持っておらず、政治的にはほぼ無力であったこと、まためまぐるしく変わっていく政府の方針に対して柔軟に対処せず、ある意味では「頑迷固陋」な方針に固執したこと、特に東京遷都に対して批判的であったことなどで維新後に急速に疎まれるようになり、それに代わって平田派から派生した大国隆正の思想を奉ずる亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)らいわゆる「津和野派」が擡頭してくるのである。

平田派の持っていた構想は、ある意味では素朴であり、単純に言えば「復古」その一語に尽きる。よって明治政府によって神祇官が再興され、一応古代律令制度が復活したとき、その目的は達したのである。しかし彼らはそれ以上の構想を持っていなかった。明治政府が「復古」だけで前進できるはずもなく、律令制が明治の時代に合うわけもなかった。また彼ら自身にも制度を再考していく政治的力量がなく、いつまでも復古という題目にとらわれる時代錯誤な人間と思われ、平田派は没落したのだった。

それを端的に表す、矢野玄道が詠んだ歌が「橿原の御代に返ると頼みしは あらぬ夢にて有りけるものを」である。明治政府の初期段階において、平田派は挫折し、表舞台から遠のくことになった。「復古」という夢は、露と消えたのである。

第1章「神祇官再興と国学者」

神祇官が再興される経緯を扱う。神祇官を含む古代律令制が再現されたのは、直接には平田派の運動の結果であるが、これは明治維新の際に急ごしらえされたものではなく、伝統的神道家である白川家・吉田家や三条実万など、幕末に至るまでの様々な人が関わっていた。

そしてこれを具体化したのが岩倉具視であり、その手足となったのが薩摩藩出身の井上石見であった。岩倉は千種有文宛の書簡(慶応3年)で「神道復古神祇官出来候由、(中略)実は悉く薩人尽力の由に候…」と述べている。岩倉らは神祇官復興にあたって吉田家を中心とした伝統的神道を基本としたものを考えていたらしく、また矢野玄道は元白川家学師であったために神祇官の中心は白川家という意見だったようだ。しかしその考えは両者とも次第に変わっていく。

王政復古の大号令が発せられたのが慶応3年10月。慶応4年2月には神祇事務局が置かれ、トップは白川資訓(すけのり)が就任。同4月には太政官を分けて七官とし、神祇事務局は神祇官とされ、ここに神祇官が復活した。そして神祇官自身が上申書を提出し、明治2年7月の官制の改革によって神祇官は太政官から特立することとなった(それまでは太政官の下にある一部局)。こうして、平田派は目的であった神祇官再興、特に太政官からの独立という「祭政一致国家」を実現し、権力の絶頂に達した。

しかし、「神武創業の始めに基づく」という理念は、ある意味では平田派の墓穴であった。なぜなら、彼らが企図していたのは古代律令制の復活であったにも関わらず、歴史的には全く明らかでない神武天皇の治世が基準となってしまったからである。このため明治の為政者たちは「復古」を掲げながらも歴史事実にとらわれることなく、ほとんどフリーハンドで政治機構を設計することができた。逆説的なことだが、歴史的に明確な「建武中興」や「古代律令制」ではなく、神話の中にある「神武創業」を旗印にしたことは明治政府を開明的に変革していく余地を残したのである。

第2章「明治初年の神祇政策と国学者」

明治初期の政権構想において、国学者が従来思われていたほど大きな影響力を有していなかったことを述べる。

政権に関与した国学グループは大きく3つある。第1に矢野玄道や平田鐵胤ら平田派、第2に福羽・亀井ら津和野派、そして第3に白川家、吉田家の伝統的神道家の両家であった。王政復古の思想を具体化するにあたってその理論を提供したのはまずは矢野であった。矢野は白川家の学師をつとめていたこともありその間は親密であったが、それは必然的に吉田家との軋轢を生じ、また吉田家は白川家に対抗して井上石見や岩倉具視の支援の元に神祇官再興運動に取り組んだ。しかし両家の次元の低い勢力争いには周囲もついていけなくなり、やがて両家の存在感は低下していった。

矢野が提供した思想は、古代律令制の復興による祭政一致国家の確立であり、その到達点が神祇官の再興であったわけだが、津和野派のそれは少し違っていた。同じ祭政一致国家を目指すのでも、津和野派は天皇親祭——すなわち神祇官によるのではなく、天皇自身が祭りを行うという体制を構想した。天皇親祭にして天皇親政、これこそが津和野派が目指す真の祭政一致であった。天皇自身が祭りを行う以上、神祇官など不要なのである。そしてこの方針は木戸孝允や大久保利通らに原則的に支持されていた。

津和野派の特徴は、維新の功臣に強力な人脈があったということである。亀井自身が津和野藩の藩主であり、津和野藩は長州藩の隣藩だったため長州閥との関係が深かった。一方、なんら政治的な基盤を持たない矢野らが自然に閑職へと追いやられていくのは、思想的な敗北があったにしても自然のなりゆきだった。また津和野派は、天皇親祭を目標とする以上、白川家・吉田家のような全国の神社を統べる中間管理職的な存在は不要と見なし、政権内から両家の排除を計画してある程度成功した。

こうして神祇官が再興された時点で既に、平田派は政権の中枢から遠ざかり、白川家・吉田家も排除されつつあった。神道国教化政策を担ったとされる平田派は、実際には神祇・宗教行政には直接関与していないのである。逆に、政権の中枢へと食い込んだのは亀井ら津和野派で、彼らがしばらく神祇行政をリードする。

第3章「明治初年における国民教導と国学者」

明治政府の宗教政策において神祇官再興と並ぶ大きな目的は、キリスト教をどうやって防ぐかということにあった。慶応4年の段階では明治政府はキリスト教厳禁を明示している。しかし西欧諸国はキリスト教解禁を強硬に求め、その要求は次第に拒絶できないものになっていく。そこで政府はキリスト教対策の方針を、「弾圧」から「教化」へ変えていった。キリスト教が蔓延しないように、日本国民をしっかり教育しようというのである。

このため明治2年に、国民教導を担う「教導局」が置かれることになった。この教導局設置を唱導したのが小野述信(のぶざね)、長州の儒臣で早くから国民教導の必要性を説いていた。

一方で、神祇行政をリードしていた津和野派は、その理論的支柱である大国隆正が神道の改革を目論み、その教えを全国に広める構想を持っていた。大国はこれまでの神道はあまりにも漠然としていてとてもキリスト教に対抗できないので、”御一新”を機に神道も一新して新たな教義を確立し、これを国民教化の法にすることを企てた。

教導局は、平田派も含めこうした様々な勢力を包含して出発した。しかしこれは不偏不党の人選といえば聞こえはいいが、ただの寄せ集めでもあった。そして、国民を教導しようにも、その内容がほとんど全く確立していなかった。神道・国学、仏教、漢学など様々な思潮がある中で、それらを包含しうる教義・教法はなかった。

教導局が改組されて「宣教使」となっても、宣教しようにも教義は確立せず、宣教のための人材も得られなかった。宣教使が人民に「宣教」するどころの話ではなく、「宣教」の内容そのものを討議するところから始められた。

明くる明治3年1月には、 「宣布大教の詔」が発せられ、宣教使は”惟神之大道(かんながらの大道)”を以て天下に布教することとなった。各藩においても宣教の活動をするように指導されたが、多くの藩が適当な人材がいないことを理由に免除や猶予を願い出た。国民教導の活動は、内部の対立や教義の不確立、人材の不足などによって全くうまくいかなかった。

こうして、これまでの体制ではキリスト教へ防禦が出来ないことが明らかになった。明治政府は、国民教導に新たな対策を講ずる必要に迫られていたのである。

第4章「祭政一致国家の構想と東京奠都問題」

東京奠都(都と定めること)に関して、平田派と津和野派の動向を述べる。

明治初年の宗教行政に強い影響力を持った平田派であったが、先述のように彼らの思想はその限界が自ずから定められていた。律令制を規範とし、古代国家の仕組みをそのまま現代に持ち込もうとしても、明治の時代にそれが合うわけもない。彼らの構想は具体的かつ固定的でありすぎたがゆえに、次第に政府からはやっかいなものと見なされていく。

逆に津和野派の構想はより柔軟であった。津和野派が構想していた祭政一致国家は、律令制によるそれではなく、天皇親祭にして親政であったし、政務を司る場所も京都でなくてもよかった。平田派が京都を中心にしていたのに対し、津和野派は江戸派や考証派の国学者も取り込んでもいた。こういう事情から、東京奠都は平田派と津和野派の明暗を分ける分水嶺になった。

津和野派の考える天皇親祭の総仕上げとも言うべきものが、東京への行幸の際に行われた氷川神社への親拝である。このために氷川神社は祭神に格付けがされるなど勅祭社にふさわしい体裁に整えられ、「皇城」の鎮護社となった。そして氷川神社は、以後の神祇官・神祇省による神社改正の雛形ともなり、これを契機として、神祇官は府藩県の式内社・式外大社の調査に乗り出していくのである。

もちろん京都を基盤とする勢力は、東京奠都には猛烈に反対した。だが平田派国学者を中心とし、守旧派公家層、京都市民、全国にいる草莽の国学者が反対運動を展開したものの、それは政府からいくばくかの懐柔策を引き出しただけではかばかしい成果を上げなかった。

東京奠都を契機として、福羽美静ら津和野派はその政治的力量と人脈を活かし、他の維新官僚にはできない分野での制度の調査・改革に中心的に取り組んでいくことになった。

第5章「教部省設置の事情と伝統的祭政一致観の敗退」

復興された神祇官には、祭祀の実施と同じくらいキリスト教の蔓延防止が期待されていた。

このため政府は神祇官の外局的な組織として宣教使を設置し、明治3年1月には「宣布大教の詔」を出して「大教」を宣布せしめた。この「大教宣布運動」を通じ、政府は神道を国教化しようと試みた。しかし復古神道には確たる宗教理論もなく、教導しようにもその中身がなかった。「大教」などと言ってもなんら積極的な教えがなかったのである。

中身のない教えによって、人々の信仰という内面的なものを強制的に変えさせるのは不可能な話であった。大教宣布の運動は、大した成果も上げることなく頓挫した。

一方で、仏教勢力にとってもキリスト教の防止は大きな課題として受け止められていた。あからさまな神道優遇の政策が行われる中で、仏教がキリスト教の防禦を担うことで仏教の地位を向上させようとする目論見もあった。よって仏教はキリスト教を法敵として排撃し、自ら進んで神仏儒三教一致による国民教化運動へ乗り出そうとした。

そういう事情の中で、明治4年8月、神祇官は改組されて神祇省と格下げされた。これには、神祇官の人々が復古的で時勢に合わず、教化策もうまくいかないと考えていた大久保利通や岩倉具視の影響もあったのであろう。神祇官にはそもそも何ら行政執行権も与えられておらず、無用のものと見なされていた。

なお神祇省への格下げの直前、明治4年3月には、丸山作楽、角田忠行、権田直助、小河一敏など平田派の神道家・国学者が突然諸藩お預けの処分を受けた。これは福羽美静の讒言によるとも言われるが真相は定かでない。平田派の地位低下を示す象徴的な事件であった。

ところが福羽が主導した神祇省も長くは続かなかった。神道一辺倒の大教宣布の運動がうまくいかなかったことで、明治4年秋頃からは仏教を動員して異教防禦を行うべきとの意見が支配的になっていった。つまり、神道のみによる国民教導の限界が、そのまま神祇省の限界となった。

こうして明治5年8月には神祇省が廃され、神仏合同で布教を行う教部省が設置された。この設置は神祇省の官員にすら知らされずに秘密裏に、そして突然行われた。この教部省設置は、福羽らの既定路線ではあったが、国学者たちの敗北でもあった。祭政一致国家であるにも関わらず、仏教を国家的宗教勢力と認めたことになるからだ。ここに、神道を国教化するという目論見は挫折した。

なおこの改組に際して、神祇省が司っていた祭祀関係の業務は式部寮に引き継がれ、教部省は教法のみを担うこととなり、祭教分離の体制へと移行した。

これに応じ、 神道における祭祀的性格と宗教的性格は分離され、祭祀面を国家的精神の源泉としていく方向性となっていったのである。

(つづく)


2018年2月10日土曜日

『大久保利通と明治維新』佐々木 克 著

大久保利通を通じて見る明治維新史。

明治維新を通史的に理解するのは非常に困難である。様々な勢力が異なった思惑を抱え、行動を二転三転させながらぶつかり合い、結果として生まれたものが明治維新であるためだ。それは後の世から見れば一筋の歩みのように見えても、実際には錯綜した動きの集積でしかない。

本書が取り組んでいるのは、この錯綜した動きを大久保利通という人物を軸にして整理し、わかりやすい明治維新史を書くと言うことである。

その意図はかなりの程度成功している。大久保は、幕末明治の歴史を通じて、ずっと表舞台で活躍したほぼ唯一の人物であり、大久保の動きそのものが明治維新だったと言っても過言ではないからだ。本書は、明治維新についての初学者向きのよいテキストといえる。

一方、「大久保利通と明治維新」を掲げるにしてはやや物足りない部分もある。例えば、「あとがき」で著者自身が述べている通り、本書では大久保の内面には深く立ち入ってはいない。大久保の行動を記述するだけで紙幅が尽きてしまい、やや表面的な歴史記述になっているきらいがある。

そして大久保の人生についても、ほとんど記載がないのは残念だ。大久保という人物を軸にしながら、その軸自体があまり語られない憾みがある。特にライフイベント(幼年の頃の勉学、結婚、子ども関係、自宅の建築など)についてはごく簡単にしか触れられない。このあたりはもう少し踏み込んで記載した方がよいと思った。

それから通史とは別のところで非常に興味を持ったのが、大久保利通は天皇像の改革に熱心だったということである。例えば大久保は宮中から女官を排除することを提言している。大久保は、女官に囲まれる柔弱な存在から、万機を親裁する近代的君主として天皇を作りかえようとした。西郷もまた天皇を君主として教育するのに熱心だったというが、大久保と天皇の関係ということも、さらに深く学んでみたいテーマだと思った。

よく整理され、読みやすくわかりやすい明治維新史。


2018年2月6日火曜日

『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』芳 即正 著

初めて書かれた島津久光の伝記。

久光というと、西郷や大久保と対立したことから、(最近はそうでもなくなってきているが)鹿児島では暗君というイメージがある。しかし著者は、久光があってこそ西郷や大久保の活躍があったと述べる。

本書に描かれる久光のイメージは、学者肌で神経質なところはあるが、政治的バランス感覚に優れ、ひとたび決断を下すや実行は果断かつ大胆であり、何よりも人の和を重んじた人物、というところだ。

他の雄藩がかわるがわる政治の舞台に移ろう中で、薩摩藩だけが幕末政治の中心に居続けることができたのは、藩内がよく統一され、藩全体が同じ方向を見据えていたためである。その中心には、下級武士に過ぎない西郷や大久保ではなく、当時藩主だった島津忠義(久光の実子)でもなくて、間違いなく久光がいた。

簡単に、久光の人生をハイライトしてみよう。

第1に、大久保利通ら誠忠組の突出計画を阻止し、藩の機構に取り立てた。誠忠組は脱藩して幕府要人を殺害する計画を立てていたが、これを察知した久光は、本来は厳罰に処すべき脱藩の計画を咎めないばかりか「精忠」と呼んでその志を認め、やがて挙藩一致してことにあたることを誓った。これにより大久保らが藩内で活躍していくことになった。

第2に、 文久2年、前代未聞の率兵上京を成功させた。久光は先君斉彬の遺志を継ぎ、また誠忠組との約束を果たす意味で、無位無官ながら千人もの兵を率いて京都に入り朝廷と接触。浪士鎮撫の勅諚を得て滞京し、勅使大原重徳とともに江戸へ赴いて幕政改革を促す「三事策」を突きつけた。この滞京の際、過激派薩摩藩士との衝突「寺田屋事件」があったが、これに敢然と対応したことはむしろ久光の信頼と声望を高めた。

第3に、 生麦事件からの薩英戦争をよく処理し、これをきっかけに海軍の増強と藩内の殖産興業に取り組んだ。また斉彬の没後に中断されていた集成館事業の一部を再開させて洋式紡績工場を建設するとともに、英国へ留学生を派遣した。元々、久光は斉彬の開明路線には賛同していたようだが、財政的な問題などで頓挫していたこれらの事業の真の必要性に気づいたのは薩英戦争の経験があってこそであった。

第4に、八月十八日政変や薩長同盟の締結など、幕末の政局をリードし続けた。八月十八日政変は、朝廷における過激な攘夷派を武力を背景に強引に排除した政変。この政変には久光は直接手を下していないが、久光の監督の下で行われたものである。また、幕末政治の一つの焦点は長州問題、すなわち反幕府的態度をとった長州をどう処分するかということにあったが、当初長州征伐の先鋒を担った薩摩藩が親長州に変わったことが幕末政治のターニングポイントになった。

第5に、武力による倒幕を決意し、王政復古のクーデターを成し遂げた。久光はそもそも公武合体を主導していたが、そこに大きく立ちはだかったのが、かつて薩摩藩が支援していた徳川慶喜だった。「三事策」においても慶喜の起用が提言されていた。ところが慶喜は要職に就くや稀代の手腕によって朝幕の政治を手玉に取り幕府の復権のみに心を砕いた。慶喜は薩摩藩にとって手強い敵であり、久光を含め諸大名も朝廷も、慶喜の政治的才覚には完全に敗北していたように思える。だが、慶喜に踊らされる朝廷と幕府を見限ったことが、久光が武力による倒幕を決意した要因であると著者は考える。

このようにして、薩英戦争のゴタゴタの時期を除いて、一貫して幕末政局の中心にいた久光だったが、いざ新政府が樹立されると急速に表舞台から姿を消す。本書では、類書では簡単にしか扱われない維新後の久光についても詳しく述べていて大変参考になる。

久光が表舞台から姿を消したのは政治的失点のためではなかった。むしろ自ら望んで身を引いた部分がある。新政府の西洋化路線への反抗を示すためにだ。新政府は、建前としては、いっこうに攘夷を実行出来ない幕府に代わって政権を担うという意味で誕生したものであった。しかし新政府は、攘夷どころか外国の制度や文物を積極的に導入し、あまつさえ天皇は洋服を着ていた。

幕末、久光を動かしたのは、このままでは日本は西洋の属国となってしまうかもしれないという危機感だった。事実、清国は内乱に乗じて列強により植民地化されている。この危機感があったから、久光はなんとしても内戦だけは避けなければならないと思っていた。イギリスとの関係から、海外からの干渉がないと確信できて初めて武力討伐を決意したという側面もあった。

しかし新政府は、植民地化こそ免れたものの、精神的には西洋を追従するだけの属国になってしまった。西洋のものならば何でもよいとし、古くからのものはなんでも否定されるような世情になっていた。そんな社会であるのなら、なんのための王政復古だったのかと久光は憤激し、天皇に改革を難ずる建白書を奉呈した。

その建白書は巷で話題となり、反明治政府的な考えを持つ全国の人々が久光に建白書を送ってくることにもなった。だが新政府は、維新の功労者である久光の処遇には大変気を遣い、最大の栄誉を与えたけれども、その意見には一切耳を貸さなかった。

西南戦争により鹿児島は潰滅し、久光の影響力も小さくなった。以後久光は歴史の編纂など学究的な仕事に取り組み、それが現在の鹿児島の維新資料の基になった。久光がいなかったら、鹿児島の明治維新の歴史は謎だらけだったかもしれない。

ところで改めて思うのは、これだけの仕事を行いながら、これまで久光の伝記がただの一冊も書かれなかったという不思議な事実である。西郷や大久保と反目したために人気がないという事情があるにせよ、久光の政治的活躍が無視できないものであるのは明らかなことである。

鹿児島の明治維新にとって過小評価されてきた、島津久光を再評価する重要な本。


2018年1月11日木曜日

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著

宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。

明治維新前後、宮崎は薩摩藩の一部であった地域があるため、鹿児島がそうであったように激しい廃仏毀釈が行われた。本書は、その次第を丹念にまとめたものである。

第1章では、廃仏毀釈に至るまでの歴史が簡約される。江戸時代の廃仏思想や平田神道の流行、水戸藩の動向など思想面での準備が語られている。なお、平田神道についての著者の理解は少し一面的過ぎると感じた。平田神道といっても、実際には一枚岩ではない。例えば平田篤胤の弟子である大国隆正も平田派に含めて説明しているが、大国派は平田派と対立していく。著者は僧侶(+高校教諭)であるだけに仏教関係の考証は非常に緻密であるのだが、神道面についてはやや概略的である。

第2章では、薩摩藩の一向宗弾圧が述べられる。この章は廃仏毀釈には直接の関係はないが、廃仏に先行した薩摩藩の仏教弾圧の歴史として位置づけられる。

第3章では、神仏分離以降の明治政府の宗教政策について簡単に触れ、ケーススタディとして寺院から神社へと変更された10例が詳しく紹介される。

第4章では、薩摩のあおりを受けて宮崎で断行された廃仏毀釈について同じくケーススタディとして13例が詳しく紹介されている。特に第4章の事例紹介は地元のことであり、具体的かつ詳細な事情が述べられていて参考になる。

第5章では、全国編、宮崎編の2つの神社創建の歴史が年表になっており、さらに終戦に至るまでの宗教政策についての年表を加え、都合3つの年表が掲載されている。この年表は、当時の神社やお寺を巡る状況をありありと想像させてくれ、また宮崎編の年表は地元神社の動向をかなり詳しくまとめており、とてもわかりやすく力作である。

そして最後に、「仏教徒よ甦れ」と題したあとがきによって本書は締められている。本書は全体的に、神道を排撃し仏教を称揚するという立場をとっており、著者の一面的な見方には少し首をかしげるようなところもある。しかしこの最後の後書きで、近年国家神道的なものが復活しつつあるのは(首相の靖国神社参拝など)、「仏教徒(特に僧侶)がだらしないのも大きな原因だ」と述べ、仏教徒に反省を促している。上から目線と捉える方もいるだろうが、私はこの後書きは仏教徒へ向けられた素晴らしい檄であると思った。

廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。