2012年8月31日金曜日

『生活の世界歴史 (1) 古代オリエントの生活』 三笠宮 崇仁 編

メソポタミア、アッシリア、エジプトの古代社会の構造や技術、経済についての論文集。

本シリーズは、その趣旨や目的がシリーズ中のどこにも説明されていないが、その内容から忖度するに、「世界史といってもこれまで書かれた“世界史”の実態は政治史に過ぎないのではないか。それだけでは見えてこない社会の変遷があるのでは? そこに注目してみよう」ということだと思われる。

「生活の世界歴史」という表題から予想されるような庶民の生活のありさまなどはあまり描かれず、どちらかというと社会構造というか、社会の雰囲気の説明に重点が置かれているようだ。

本書では、三笠宮崇仁(プロローグ)、糸賀昌明(メソポタミア)佐藤 進(アッシリア)、屋形禎亮(エジプト)、立川昭二(鉄)の論文が収められているが、シリーズの趣旨や目的が明確でないだけに、筆致は各著者でバラツキがあり、必ずしも統一的な視点で叙述されていない。しかし、生活という茫漠として複雑多岐に亘るものを書こうとすると、こういうやり方しかないのかもしれないとは思う。

一般的な通史ではわからない、経済構造、食料供給構造、技術史、社会構造などがおぼろげながらに見えるということで、古い本ではあるが一読の価値はある。一番驚いたのは、エジプトの話で、社会構成は意外に流動的であったということ。現代社会にも通じる部分があるといえよう。
奴隷を除いては、たとえ貴族であろうと農民であろうと、たてまえとしてはみなファラオの臣下として制限された「自由」しか認められなかったということ、その意味で社会層が固定しておらず、その構成員の変動の余波がファラオの手によって確保されていたということ、これがファラオ文明を二〇〇〇年以上にわたって存続繁栄させた社会的要因であるということができる。(本書p219)


『五輪塔の起原―五輪塔の早期形式に関する研究論文集』 藪田 嘉一郎 編著

日本全国にありふれているのに、基本的な研究がほとんど進んでいない五輪塔についてまとめられた稀有な本。

五輪塔は平安時代末期以降に非常に流行した墓石形態であるが、その形態や信仰についてのまとまった書籍は少ない。本書は論文集ではあるが、分量的にはほとんど編著者の論考が占め、他の著者の論文は前菜として掲げられている程度である。

前菜部分の論文は、一般向けというより研究者が限られた範囲の専門的事項について語っているという感じであるが、あまり難しいものではなく、さらりと読める。後半の編著者の論考も、研究者向きに語っているのだが、割合に総論的な内容であるために一般にも十分に理解できるだろう。

ただし、論考が進むにつれ、「~かもしれない」式の憶測が多くなる印象があり、悪く言えば編著者の空想の要素が強くなっている感を受けた。

どうして五輪塔が非常に流行したのかという疑問に対しては、要は製作が容易だったからだという見解が表明されており、これには膝を打つ思いがした。単純なことであるが、このような基本的なことを指摘しているだけでも本書の価値はある。

なお、積石信仰のような民間信仰との繋がりも考究してもらいたかったが、本書ではインドからの文化伝播の視点で五輪塔の起源が考えられており、その点は物足りない。また、起源を考えるなら早期五輪塔の地域分布を分析するといったことも必要な気がするが、そういったこともなされていない。

論文集であり、出版年も古く、広く読まれる本ではないが、五輪塔について考える際には座右に置くべき本。

2012年8月30日木曜日

『石の宗教』 五来 重 著

日本人にはもともと自然石を敬ったり、石を積むことで死者を弔ったりといった、石による信仰があったことを様々な事例を引いて主張する本。

著者の主張にはナルホドと思わせる部分が多く、旧来の仏教・神道・民間信仰などという縦割りの研究では見えにくかった日本人の素朴な信仰が透けて見える思いがする。

庚申塔や道祖神が境界や道標となっていることはよく指摘されるが、地蔵も境界を示すものであり、またこれらは男根像でもあったというのは新鮮だった。 この他にも、これまで見過ごされがちであった石塔や石像のもつ民間信仰的な意味合いが説明されており、「石の宗教」という視点は非常に重要だと感じた。

特に前半部分は石の宗教についての概論・体系的なまとめの色彩が強く、説得性がある。しかし、後半になってくると、体系的な説明というより、著者の個人的な経験であったり、「これもある、あれもある」式の叙述が多くなってくる。こういうのも大事だと思う、のような単に重要性を示唆するだけのテーマも散見され、生煮え感は否めない。書き下ろしではなく、『石塔工芸』という雑誌に連載していたものだから、後半はネタ切れというか準備不足があったのかもしれない。

とはいうものの、「石の宗教」という視点の重要性は強調するに足るものだ。今後の研究の進展を期待したい。

2012年8月29日水曜日

『害虫の誕生―虫からみた日本史』 瀬戸口 明久 著

明治以前の日本では害虫対策はほとんどなかったが、警察の指導や戦争の影響で殺虫剤等の対策が普及した、という本。

江戸期の日本人にとって虫害はどうしようもないものであり、「虫が出るのは祟り」などとする観念があったという。明治政府は西欧から応用昆虫学を導入し、これを駆除すべく農民を指導したが、農民は害虫=除去すべき/できるものという考えを持っていなかったためにうまく駆除が進まない。

そこで政府は警察権力により強制的に害虫駆除を進め、害虫を駆除しないものを(年数千人規模で)検挙するといった対策をとる。また平行して子供に害虫を教え、害虫を一匹いくらで買い取るなど、「害虫=駆除すべきもの」という「常識」を植え付けていく。

害虫対策がさらに浸透するのは戦争で、マラリアなど南方の伝染病を防ぐために化学薬品を使った害虫駆除の技術が進歩し、これがやがて農業にも応用されていく。

日本の近代において害虫の観念・対策が変化していくのは、地味な変化ではあるが農業生産に与えた影響は大きく、このような本でまとめられるのは意味がある。

だが、「虫からみた日本史」の副題は風呂敷を広げすぎで、取り扱われているのは明治以降であり、享保の大飢饉すら出てこないわけで、看板に偽りがある。また「虫からみた」というのもちょっと誤解を生む表現で、「近代における害虫像の変遷」というくらいが適切だろう。これは面白味のない副題だろうが、多くの人にとって害虫像の変遷などは面白くないものであり、名は体を表す意味ではこれくらいがせいぜいだ。

さらに、記述が通俗的で研究者の書いたものとは思われない箇所もある。ただ、これは博士論文を加除修正して作った著者の処女作のようなので、その点はいたしかたないかもしれない。害虫に興味がある人にとってはもちろん、そうでなくても明治期の人々の価値観の変化が自然なものではなく、権力によって無理矢理起こされたものである一例を知るだけでも意味のある本。

2012年8月27日月曜日

『米・百姓・天皇 日本史の虚像のゆくえ』 網野 善彦、石井 進 著

日本史の水田中心主義に対して意義を唱えながらも、それに代わる見方も未熟で生煮えな本。

本書は日本史学者二人の対談であり、正直なところ、日本の歴史学界への単なる愚痴にすぎないところが多い。その意味で、極めて内輪的な本である。さらに、対談の中で体系的・理論的な主張がなされるわけではなく、床屋談義的に雑談が進むだけであって、内容も学術文庫にふさわしいレベルではない。

特に最大の問題は、従来の常識に対して意義を唱えながらも、それに代わる見方でどのようなことがわかるのかが全く見えないことで、「〜も重要だ」「〜にももっと注目すべきだ」などと言いながら、それに着目することによるメリットが全く説明されない。

本書のポイントは、
江戸時代は農本主義であったと考えられがちだが、これは百姓=農民ではないのに、いろいろな生業を全て農業にくくってしまうイメージ操作による部分がある。実際には農民の割合は40%程度であったと考えられ、百姓は様々な職業で生計を立てていたわけで、米だけに注目すると、漁業、林業、養蚕、果樹栽培などの重要な生業を見落とすことになる。米だけが注目されてきた理由は、律令国家の成立において租税体系の基礎に水田を措いたことの影響であろう。
と要約できると思う。

まあ、この主張自体はよい。だが、漁業、林業、養蚕、果樹栽培などに注目すると、何がわかるのだろうか? この本にはその説明は全くない。これらの分野は研究が進んでいないからよくわからない、というだけである。『甘藷の歴史』において鮮やかにその影響を描いた宮本常一とは何という違いだろうか。

その他にも、農業という用語の定義について何ページにも渡って議論したり、「日本」と「倭国」の使い分けについて議論したり、(学者にとっては意味があるのかもしれないが一般読者にとっては)非生産的で退屈な部分も散見される。興味深い部分もあるにはあるが、内容に重複が多く編集も雑な感じがするし、全体的に粗雑で生煮えな本と評価せざるを得ない。はっきり言って、タイトルが大げさすぎである。

2012年8月25日土曜日

『甘藷の歴史』 宮本 常一 著

甘藷(サツマイモ)の歴史についてまとめられた貴重な本。

茶や米といった作物なら、その故事来歴を語る本はたくさんあるが、サツマイモのようにありふれた日常的なものは、なかなか注目を浴びにくい。だが、痩せた土地でもよく育ち、手間もかからないというサツマイモは、確実に庶民の生活を変えており、さらにいえば農村の社会構造にすら大きな影響を与えた。

著者は、単にサツマイモの歴史を辿るだけでなく、サツマイモが社会にどういう影響を与えたのかという深い洞察を加える。その文章は陰影が深く、余韻が豊かであり要約は無粋だが、あえて一言で言えば「サツマイモは多収な上に租税の対象にもならなかったので、農村の食糧を支え、単調ささえ我慢すれば食うには困らないという気楽な零細農をたくさん生み出す一因ともなった」というところだろうか。

なお、現在ではサツマイモという用語が定着しているが、鹿児島から日本に広がったわけではなく、一つのアイコンとして鹿児島があるに過ぎない。伝来の経路はアメリカ→ヨーロッパ(16世紀初頭)→中国(16世紀末)→琉球(17世紀初頭)とひとたび琉球まで伝えられる。それから経路は2つに別れ、一つは長崎の平戸で、もう一つは琉球→種子島→鹿児島(18世紀初頭?)と伝えられた。平戸と鹿児島がどちらが先なのかはわからないらしい。

このような経緯から、サツマイモは長くリウキウイモ(琉球芋)とも呼ばれており、サツマイモの呼称が定着するのはずっとあとの話だ。今でも京都あたりではリウキウイモということもあるらしい。だが、リウキウイモとサツマイモは品種が違っていたのではないかとか、正確にはわからないことも多く、甘藷の歴史はまだ茫洋としている。日本全体へ伝播していった歴史はさらにわからないことだらけで、顕著な貢献をした人以外にも、名もない多くの人々の努力によって広まったのだろうと著者は推測している。

ありふれた、でも重要な作物であるサツマイモがいかにして日本に根を下ろしたか、こんな問いは単なる暇つぶしの知的好奇心のようにも思えるが、実はそこから日本のいろいろなものが見えてくる思いがする。

2012年8月24日金曜日

『茶の湯の歴史』 神津 朝夫 著

茶の湯の歴史を極めて実証的に書いた本。

茶の湯のような「高尚な」芸事の歴史というと、とかく精神性・芸術性・神秘性が強調され、行き着くところは単なる権威主義であったり、創始者への絶対的な崇敬だったりするわけだが、この本には、全くそういうところがない。

当時の社会情勢を踏まえながら、特に点前・作法については丁寧に変遷を辿り、フラットに茶の湯の実態を説明する。そこから導かれるのは、従前言われてきた茶道史への批判である。結局のところ、それが立脚してきたのは、茶書への安易な盲信、茶の湯はかくあるべしという思い込み、偉人伝のエピソード、茶の湯のもつ精神性への期待であった。それは、著者の言葉を借りれば「文化史的幻想」であった。

そういうわけで、従前の茶道史とは一線を画す本だということだが、私自身びっくりしたことを2点ほどメモしておきたい。
  • 茶の湯と禅との強い繋がりが喧伝されるが、本来茶の湯と禅はほとんど関係がなく、むしろ茶の湯は法華宗的なものである。
  • 千利休は武野紹鴎の弟子、といわれてきたが、それは間違いで実際の師は辻玄哉北向道陳らしい。ちなみに両氏とも法華宗徒だ。
これだけでもかなり衝撃だったのだが、本書には「そうだったのお!?」とのけぞるような事がたくさん書かれている。従来の茶の湯の歴史書というのには詳しくないが、今後この分野の基礎となるような本だと思う。

2012年8月23日木曜日

『道教百話』 窪 徳忠 著

日本は中国から様々なものを学んだが、取り入れなかったものが2つだけある。宦官と道教だ——ということがよく言われるが、そんなことはない。

確かに為政者が不老長寿の仙薬を飲むことはなかったけれども、閻魔さま、お中元、おフダなど、道教から取り入れたものはたくさんあるし、民間信仰の柱の一つとして、道教は確固たる位置を占めている。

しかし、民間信仰なだけに、体系的でも教義的でもなく、信仰というよりは迷信・俗信と切り捨てられるようなものが多く、改めて道教とは何か? と聞かれてもよくわからない状態だ。

本書は、道教を身近に感じられる軽い話をまとめたもので、一応「道教とはなにか」「道教の変遷」というお勉強のセクションもあるが、基本的には雑多な話の寄せ集めであり、体系的な道教の紹介ではない。

正直、雑多な話の部分はどちらかといえば退屈で、単なる伝説の紹介が蜿蜒と続く。私は、てっきり著者の道教に関する考察が百話あるのかと思っていたので、この部分は当てが外れたが、その伝説に1〜2行加えられた著者のコメントは秀逸で、簡潔ながらもナルホドと思わせる。

全体を通じて強く感じたのは、日本人の他界観は「この世とは別の原理で動くところ」というイメージがあるのに対し、道教においては仙界も人間界と連続しており、その基本構造は現世とあまり変わらないということだ。何しろ、仙界にも役人がいたり、役人になる試験があったりするというのは、日本人の他界観ではありえないことだろう。そういう意味では、道教は非常に現世的な宗教だと感じた。

それから、改めて研究してみたいが、道教と修験道との類似について数カ所記述があり、興味を引かれた。道教と修験道に系統関係があるのか、平行進化的な存在なのかよくわからないが、少なくとも修験道は道教からなんらかの影響を受けているのは確実らしく、これは修験道研究に当たっては重要な要素ではないかと思う。

前述のとおり、少し物足りない本だったが、道教に関するちゃんとした紹介はなかなかないので、とっかかりとしては価値があるだろう。

2012年8月22日水曜日

『文明が衰亡するとき』 高坂 正尭 著

文明の衰亡に関する体系的な論考ではなく、エッセイのような本。しかし、慧眼に溢れていて、非常に濃密

本書では、ローマ帝国、ヴェネツィア、アメリカという3つの国家の勃興と衰微が説明され、その背景が考察される。もちろん、高坂氏はこれらの国家専門の研究者ではないし、歴史家でもないのだから、基本的には文献による研究であり、そこに何か新事実が含まれているわけではない。

だが、その考察に安易さはなく、また専門家にありがちな枝葉末節の長大な説明などもなく、非常によいバランスを保ちながら書かれている。

本書において著者自身が述べている通り、文明論というものは、その所属する文明が凋落の兆しを見せているからこそ興味を引かれるものである。だからこそ、本書がバブル期の1981年に書かれているということにも著者の洞察が感じられる。世間は80年代的な軽佻浮薄さに溢れていただろうに。この本は、今こそ日本の読者に真剣に受け取られるのではないだろうか。

ちなみに「あとがき」において著者は、「要するにこの書物は、昔から書きたいと思ってきた本である」と書いている。読んでも楽しい本だが、この本は書くのも楽しかっただろうと思う。

2012年8月21日火曜日

『知的な痴的な教養講座』開高 健 著

多少知的で、そして痴的でもあるが、教養講座と銘打つほどのものではない。

元々は『週刊プレイボーイ』で連載されていた軽いエッセイだから、格段に知的ということはあり得ないが、現代的視点から見ると、80年代的なお気楽さと軽薄さが滲み出ていて、内容以前にその雰囲気に違和感を持ってしまう。

開高さんお得意の、女、釣り、酒の話題は冴えていないことはない。話題も豊富だし、ところどころにはタメになることも書いてある。しかし、安易な文明批評とか、 面白い話題の組み合わせだけで話をまとめたり、内容に深みがない。

「へー、面白いですね。で?」で終わってしまう。こういう本は暇つぶしには最適だが、まあ、特に暇でなければ読む必要はないだろう。

だが、「肥後ずいき」という江戸時代以来の面白い性具を知ったことには感謝したい。ちょっと検索してみて、こんな風雅な性具が今でも売られていることにびっくりした。