2012年9月23日日曜日

『正義と嫉妬の経済学』 竹内 靖雄 著

「世間ではこう思われているけど、よく考えてみるとこうでないの?」ということを時事問題を中心にして述べる本。

本書は「経済倫理学」なるものを提唱した著者が、世相に対して経済学的視点から気の利いたことを言おうとした本であり、出版当時においては、実際に少し気の利いた本だったのだと思う。

しかし、本書の出版は1992年で現在から20年も前のため、取り上げる時事的な世相が既に過去のもので、それだけで本書の意義は半減している。さらに著者の見解は、当時は独創性があったのかもしれないが、今では常識化しているものばかりで、はっきり言えば陳腐である。しかもそれは、著者が時代を先んじていたわけでもない。本書には言及がないが、その見解の主要な部分はミルトン・フリードマンなどに負っていると思われ、正直、本書を読むよりも例えば『資本主義と自由』を読む方が、より体系的かつ理論的に著者の主張を摑めると思うし、普遍的価値がある。

さらに、書名となっている「正義と嫉妬の経済学」は、本書の内容とほとんど何の関係もない。著者の提唱する「経済倫理学」自体についての説明はほとんどないが、要は「倫理的問題と思われていることを経済的な領域に落とし込んで考える」ということのようで、それはそれで一つの立場だと思う。しかしそういう分析手法は本書にほとんど登場しないし、正義も嫉妬も何の関係もない話が多いのは残念だ。

しかも、本書で多少触れられる倫理学的な問題についても、ピーター・シンガーの動物倫理を「無理がある」の一言で片付けるような乱暴なところがあり、とても真面目に倫理問題を検証したことがあるような言とは思えない。経済倫理学などというならば、厚生経済学についても触れるのが当然と思うが、本書にはケネス・アローもアマルティア・センも登場しない。著者のいう経済倫理学は、せいぜい「正義感に基づいて管理しようとするより市場に任せる方がうまくいく」程度のものでしかないように思われる。

ついでに言えば、著者の専門であるはずの経済学についても、バブル経済的な浮かれ気分から冷静な分析ができておらず、バブル崩壊後にもかかわらず依然として「世界一好調なのは日本経済」というような根拠なき自信に溢れており、バブル崩壊によってもたらされる影響を過小評価している。それだけでも著者の主張は眉唾して見るべきだ。

本書は今で言えば経済評論家がブログで書くようなことが並んでいて、世相の分析についても解説ともいえないような通俗的なことが連ねられているし、なんら意味のある主張もなされず、「だから何?」というような内容である。出版当時は多少気が利いていたのかもしれないが、20年の間に完全に陳腐化した本。

2012年9月16日日曜日

『街道をゆく(19) 中国・江南のみち』司馬 遼太郎 著

ご存じのシリーズ。江南の地をゆく司馬遼太郎のエッセイ。

江南地方は日本文化に非常に大きな影響を与えているが、具体的にはよくわからない部分が大きい。華北的な儒教や律令といった政治の道具と違って、江南の地からもたらされたものは文化であるために、その有り様は茫洋としている。

元より「街道をゆく」は気軽なエッセイで、体系的な考察ではないし、ときに見聞の記録ですらない。しばしば、「ところで…」と脱線してしまうし、いろいろ準備しているとはいえ、数日間の強行日程で深い考察などできるはずもない。よって、その茫洋とした江南の文化を本書で知ることは不可能で、ただ少し垣間見ることができるだけに過ぎない。

「街道をゆく」はおそらく20冊以上読んでいるが、やはり中国については現地の事前知識が少ないためか本書にはおざなり感がある。読んでいて退屈な部分もある。いろいろとヒントや小ネタが満載なので、決して価値の低い本ではないけれども、紀行文として読むと少し物足りない。

日本国内の「街道をゆく」であれば、「もしかしたら〜は〜だったのかもしれない」というような、良くも悪くも自由な発想で「司馬史観」が展開されるわけだが、本書の場合は背景の解説のみに止まっている部分が多く、それが退屈なのかもしれない。悪い本ではないし、著者のファンならば全く問題なく楽しめると思うが、同シリーズの中においては凡庸な本。

2012年9月15日土曜日

『西欧古典農学の研究』 岩片 磯雄 著

18世紀初頭から19世紀中葉までのイギリス及びドイツの農学の流れについてまとめた本。

この本は、テーマが非常に限定されていて、また内容も学術的であり読者を選ぶ本ではあるが、類書もほとんどなく価値が大きい。

内容は、著者の農業経営に対する見方を示す序章の後、農学の流れの概要を解説、その後イギリスについてはジェスロ・タルとアーサー・ヤングの業績をまとめ、次にドイツについてはアルブレヒト・テーアとチューネンの業績をまとめる。

既出の論文等の改稿が多く、若干体系的でない部分があることと、学術的な記述ぶりのため英語及びドイツ語が頻出するものの、近代農学が成立する流れについてはある程度理解できる。とはいっても、各農学者の主張については、かなり取捨選択している感があり、例えばテーアにおいて簿記の導入が記載されないなど、粗密があるように見受けられた。特に休閑については、著者自身がこれを重要視しているにもかかわらず、些末な点に拘泥するあまり、休閑をどのように克服したのかということが最後までよくわからない部分があった。

それに最大の問題は、「西欧古典農学」を謳いながら、その対象をイギリスとドイツのみに絞っていることだ。 ヨーロッパの農学史は詳しくないが、フランスには農書の名著も少なくないと聞く。せめてフランスの農学についても概略を記載してもらいたかった。

と、いろいろと批判する点はあるものの、先述の通り類書もほとんどなく、書かれている事自体は様々な資料を縦横に駆使し、極めて堅実に書かれており、古い本なのでちょっと気になる部分もあるが全体的には明快で、この分野においては基本図書と言うべき重要な本である。

内容については別のブログにまとめたのでそちらもご参照されたい。

2012年9月8日土曜日

『アイガモがくれた奇跡 失敗を楽しむ農家・古野隆雄の挑戦』 古野 隆雄 著

アイガモ農法の第一人者である著者が、さまざまな苦労をしながらアイガモに出会い、やがてアイガモ農法を確立・普及させていくサクセス・ストーリーの本。

本書はアイガモ農法そのものの話ではなく、著者の人生の振り返りとも言うべきものである。ただし、話の流れ上アイガモ農法の利点も学べることができ、その雰囲気や、どのような背景で成立したのかといったことも知ることができる。

一農家にすぎなかった著者が、完全有機栽培を始めアイガモに出会い、苦労をしながらもアイガモ農法によって成功し、各国で講演をしたり、本を出版したり、スイスのシュワブ財団より2001年「傑出した社会起業家」の一人に選出されたりするというのは、話として面白い。

また、これは純粋な著書ではなくて聞き書き(取材したことを編集者が書いて、それを著者が校正する)だし、元は新聞連載なので大変読みやすい。ワクワクドキドキというような展開はないが、ひどく退屈な部分もない。

人生を通して何かを言う、のような偉ぶったところもなく、教訓めいた話もない。同時に、深い洞察や哲理も述べられないが、そこはあっさりとしていて逆によい。

とはいうものの、これはアイガモ農法を確立した著者の人生に関心がある人だけが読む意味がある本である。これを読んで勉強になる! などということは、農業をしていない人にはないと思う。でも農業従事者であれば、著者の生き方には何か感じるところがあるかもしれない。

2012年9月7日金曜日

『生活の世界歴史(4) 素顔のローマ人』 弓削 達 著


頽廃するローマの社会を、そこに生きた人々の叙述を通して描き出す本。

本書はローマの社会を学ぶ本ではなく、むしろ頽廃した社会の中で人がどのように生きたかを学ぶ本であり、極めて現代的な側面がある。

よく知られているように、帝政ローマでは拝金主義、奢侈、堕落、不信、嫉妬、残酷、度を超えた美食といった悪徳がはびこり、性の頽廃とそれによる家庭崩壊によって価値観が崩壊し、さらに度重なる戦争も相まって社会が乱れに乱れていた。

もちろん現代から見ても先進的な制度や、誇るべき言論もあったが、全体として社会は卑俗なものとなっていた。だがそこで生きる人の中にも、悪徳を告発し、高貴な精神を保ちたいと願った人はいて、それが本書の主人公だ。

具体的には、哲学者としても名高いセネカ、『博物誌』を書いた大プリニウスの甥の小プリニウスが中心になる。彼らは社会の悪徳を嫌悪しつつも、その社会の中で勝ち上がった現実的な人間であった。そして、そうした勝ち組も冷ややかに見つめるのが、詩人のマールティアーリスであり、彼の毒舌が本書のアクセントとなっている。

この中で最も魅力的なのがセネカで、「自らもまた罪と悪に染まったところの、この社会における加害者の一人たることを嫌悪をもって実感しつつも、加害者たることをやめ切れず、罪と悪から逃れえない心の弱さと矛盾に悩む奈落の底から、救いを求める求道者がセネカであった」(p.92)という説明に要約されるように、複雑な内省を抱えた憎めない人間像に惹かれる。

本書の難点としては、資料の引用が非常に多く、時に冗長であることだ。当時のローマ人の手紙の長ったらしさは異常で、それを抜粋とは言えかなりの分量引用するので読むのが疲れる。もう少し簡潔に叙述できたのではないかという気もするが、当時の雰囲気をよく理解することができるという利点もある。社会が乱れつつある今、帝政ローマで何が起こったかを知ることは有益だろう。

2012年9月6日木曜日

『インターネットの中の神々―21世紀の宗教空間』 生駒 孝彰 著

インターネット勃興期の20世紀末において、アメリカの宗教団体がどのようにインターネットを活用しているかをまとめた本。

出版が1999年なので、今の宗教界におけるインターネットの利用とは既に隔世の感があり、現状を知りたいという人には無用な本だが、当時を知りたいという人には貴重かもしれない。

本書の基本的構造は、「検索したらこんなのでてきました」というのがずらずら続くだけで、特段深い洞察があるわけでもなく、著者がいろいろな宗教、宗派にわたって検索した結果がまとめられているだけである。そういう意味では非常におざなりな本なのだが、そもそも本書の目的がそういうことをまとめることにあるわけで、これはこれでよいと思う。

なかなか面白いと思ったのは、アメリカの宗教団体のインターネット利用の基本的姿勢が、Eメールによる信者との交流にあるという点だ。様々な問題が宗教の観点から議論されるアメリカでは、家庭や社会の問題について宗教者に相談するというのが一つの常道となっており、そのためEメールでの相談が積極的にされているのだという。日本でも、社会問題に対して宗教団体がだんだん積極的に発言するようになってきたが(例:脱原発)、そういう使い方がされているのは少ないと思う。

アメリカの有象無象の宗教について興味のある(少数の)人には面白い本。

2012年9月5日水曜日

『有機栽培の基礎知識』 西尾 道徳 著

有機栽培を中心にしながら、農業一般に必要となる理論的基礎が学べる本。

有機栽培、有機農法というと「有機栽培の野菜で病気がなおった!」とか「人柄まで明るくなった!」といった迷信的な喧伝がなされることが多く、有機農法を勧める本においても慣行農法の悪口ばかり書いてあり、有機農法がなぜよいのか? という根本がまったく書かれていない本が多い。

本書はこうした凡百の有機栽培本とは一線を画し、まず有機栽培とは何かを明確化した上で、その利点、欠点を冷静に評価する。著者は土壌学、微生物学の専門家であるため施肥の話が多く、特に後半は施肥の応用的知識が多くなってくる。それは「基礎知識」から逸脱している部分もあるが、全体的なバランスはよい。ただ、病害虫についてはほとんど触れずに「有機栽培では少なくとも病害は少ないといえるかもしれない(p.204)」だけで済ますのはやや安直すぎる感がある。病害虫の防除は基本的に輪作や混作で対処すべきといったことは書かれるが、「基礎知識」を銘打つ以上は体系的に述べるべきだ。

とはいえ、書かれている事項は有機栽培のみならず、作物生産を深く理解するためには重要なことばかりで、何度もナルホドと唸らされた。安易なハウツーではなく「基礎知識」を提供することを主眼においているので、これを読んで有機栽培ができるようになるという本ではないが、理論的基礎を学ぶためには格好の書である。

また、有機栽培に取り組みたいという人でなくても、第1章「持続可能な有機農業とは」は読む価値がある。有機農業とは一体何なのか、それが明確に説明されることは意外に少ないので、ここだけでも本書の価値は高いといえる。

2012年9月4日火曜日

『生活の世界歴史(3) ポリスの市民生活』 太田 秀通 著

古代ギリシアの民主制とそれを支える奴隷制の内実を描く本。

古代ギリシアというと、素晴らしい彫刻、建築、文学、哲学といった文化的精華に目を奪われて、ついついそれが(現代的に見て)素晴らしい時代だったかのように思いがちだけれども、その内実は意外に暗鬱な部分がある。

本書では、彫刻や建築といった文化面はほとんど取り上げず、ポリスの市民生活がどうだったかということに焦点を当てて記述する。特にアテネの民主制の実態は興味深い。

アテネの民主制は徹底しており、政治のみならず司法(裁判)も市民の手で運営されていたので、市民はとても忙しかった。しかしそれは所詮素人の仕事であり、話術の巧みな者に唱導されてしまい、衆愚的な方向に陥りやすい。それでなくても、忙しい民主制を維持するためには労働を肩代わりする奴隷制が必須であり、新規奴隷を獲得するため自然と侵略戦争を必要とする。民主制のアテネが地中海の覇権を争う帝国主義国家になったのは、まさしくそれが民主国家であったためということが大きい。

古代アテネの民主制を知ることは、民主主義への幻想を打ち砕く一助となる。確かに素晴らしい部分もあったが、民主制は手間がかかり、国庫の負担も大きく、しかも賢明な選択をなしづらい制度であった。著者は、アテネ民主制の黄金時代は57年間だったと述べる(p.116)が、後代賞賛された民主制とは、ほんの一時期だけ、幸運に恵まれて実現した泡沫の夢であったと言えよう。

しかし意外だったのは、当時の奴隷観だ。私は激しい身分差別が存在していたのだろうという先入観があったが、実際はそうでもないようだ。例えば、身分の別にかかわらず同一労働同一賃金が保障されていたり、奴隷と共に労働することが何ら恥ではなかったりといったことが挙げられる。これは、人権意識があったということではなくて、アテネの経済構造を支える奴隷の利益を保護し、生産を滞りなく進めるためだったらしい。

奴隷とアテネ市民の間には懸隔があったのは確かだが、「弱者が強者に支配されているだけのもので、いわば運命によってそうなっているだけにすぎず、王子も王妃も王女さえも、弱者なるが故に他人の奴隷となることがある、と考えられていた(p.232)」のである。

2012年9月3日月曜日

『日本文化の形成』 宮本 常一 著

独自の視点から、日本文化の形成に大きな役割を果たした先住民(縄文人)や海洋民、焼畑耕作、秦人などについて語る本。

本書は宮本常一の遺稿であって、著者自身がまとめたものではなく、未完成なものだ。本書で提示されたアイデアは、さらに深められ、体系的な文化論としてまとめられるはずだった。その意味では、本書はその壮大な構想の一端だけで終わってしまっている感があり、物足りない部分がある。

しかし、日本中を歩いた著者の確かな目は、記紀や万葉集といった文献に対しても冴え渡っており、そのアイデアには興奮させられる。政治史ではなく、技術・生産・生活の歴史に注目してきた著者ならではの着眼点が素晴らしい。

特に興味深かったのは、海洋民が高床の住居をもたらしたとする説や、焼畑耕作の実際である。海洋民については、近年研究が盛んになってきているが、焼畑耕作についてはこのような視点での研究は未だに多くない。本書においても、山間に住む人々の重要な生産手段だったのではないか、と示唆するだけで、だから何? という部分もなくはない。しかし、東アジアの中の日本という視座で考えるならば、海洋民とともに焼畑耕作の伝播と発展は極めて重要であり、今後のさらなる研究が待たれる。

ともかく、この研究がまとまらないうちに著者が鬼籍に入ったことは残念でならない。本来なら著者のライフワークの集大成となるはずの本だったが、本書は基本的アイデアの(一部の)提示に止まる。それにも関わらず、本書は日本文化の形成ということを考える上での必読書であろう。


2012年9月2日日曜日

『古代オリエントの宗教』 青木 健 著

2〜12世紀のオリエントの諸宗教が、聖書のストーリーに影響を受けて変容していった歴史について語る本。

これは主題がかなりマニアックで、取り上げられている「諸宗教」もマンダ教、マーニー教、ゾロアスター教ズルヴァーン主義、ミトラ信仰とアルメニア正統使徒教会、イスラム教イスマイール派などと、相当にディープな世界である。

これらの諸宗教が、当時支配的な影響力を持っていた聖書(旧約、新約、クルアーン)に自らの神話を位置づけるかたちでその内容を変化させていった、ということが学術的な正確さを保ちつつ、簡潔かつ系統的に記述される。

なにぶん主題がマニアックなので、読者を選ぶ本だと思うが、その中身は充実していて完成度は高い。ややこしい関係が図などを用いてわかりやすく説明されているし、このような主題の下にまとめられた書籍はかつてなかったと思うので、こういう分野について興味のある人にとっては必読書だと思う。

しかし、聖書ストーリーから受けた影響だけに焦点をあてて記述されているため、やや現実が単純化されているような部分もある。宗教が社会から独立して存在していたわけではなく、信者がいて、その信者が依って立つ経済構造があったわけで、それらに全く触れずに宗教の変遷を語るというのは少し無理がある。

また(これは著者の責任ではないが)、初版の帯の売り文句が「異教の魔神たちが織りなすもうひとつの精神史」なのだが、これは本書の内容と全く関係がない。それから書名も簡潔すぎ、せめて「聖書が及ぼした影響」などと副題をつけるべきだろう。本書では、古代オリエントの宗教に関する基礎的な事項は、読者にとって既知である前提がある気がする。マニアックながら端正にまとめられた良書ではあるが、編集者のセンスを疑う。

2012年9月1日土曜日

『かたち誕生―図像のコスモロジー (万物照応劇場)』杉浦 康平 著

グラフィックデザイナーの杉浦康平氏が、古今東西のさまざまな「かたち」について縦横無尽に語る本。

この本を楽しめるかどうかは、著者の「かたち」への見方に共感できるか、さらに言えば著者と「かたち」の世界観を共有できるかどうかにかかっていて、杉浦康平ファンにとっては垂涎の品だろうが、そうでない人にとっては「はあ?」という本だと思う。そして私は残念ながら後者である。

客観的に見てナルホドと思う部分もなくはないが、「かたち」の考察の大部分は著者の思い込みと推測で構成されていて、著者と世界観を共有しない者にとってはかなり違和感がある。私は、本書を図像発展の歴史の本だと思っていたので、このような自由な考察の書だということが、かなり期待はずれだった。

とはいえ、かたちというとすぐに西欧中心のイコノロジーの話になってしまいがちなのであるが、本書ではそういう安易さは微塵もなく、普通あまり取り上げられないアジアの図像をふんだんに参照して独自の解釈を加えている。その解釈に賛同するか否かはともかくとして、その価値は大きい。

また、本のつくりが非常に凝っていて、大量の図がちりばめられていたり、余白にちょっとした何かが描いてあったりと、杉浦康平ブックデザインが好きな人にとっては本としての魅力も高い。カバーを取ると非常にかっこいいので、その点は唸らされた。

『チョコレートを滅ぼしたカビ・キノコの話 植物病理学入門』ニコラス・マネー 著、小川 真 訳

菌類が樹木や作物に与えている甚大な被害と、それに翻弄されたり研究したりした人の逸話をまとめた本。

私は植物病理学に関心があって、本書の副題に惹かれて読んだのだが、これは副題が悪く、植物病理学への入門的な側面は微塵もない。そもそも原題は『The Triumph of the FUNGI: A Rotten History(菌類の勝利:腐れた話)』で植物病理学入門などという大それたことは謳っていなかったみたいで、これは編集者の責任。

とにかく、「菌の被害は凄いです」という事例がどんどん出てくるが、その被害が例えば害虫の被害に比べてどのくらいひどいのかという比較もないし、 研究エピソードなども専門の人には面白いのかも知れないが「で?」で終わるようなものも多く、全体的に無駄話がだらだら続く調子。

せっかく菌学者が執筆しているのだから、病理学の体系的な説明があればよいのにそういうこともなく、個別の細菌の枝葉末節的な説明に終始するだけ。雑学としてはいいが、物足りなさが残る。

本書のメッセージの一つは、「大規模な単一植物栽培が菌類による被害を拡大させている」ということなのだが、それは害虫でも同じことだし、当たり前のこと過ぎて今さらメインメッセージにするほどのことでもないのではないか。枝葉末節の四方山話ばかりで表面的な本。

『生活の世界歴史 (2) 黄土を拓いた人びと』 三田村 泰助 著

明代を中心に、中国大陸の文明論をたくさんの小ネタを用いていろいろな角度から展開する本。

「黄土を拓いた人々」の副題は紛らわしい。実際には、開墾を進めた農民の話は多くないし、むしろ歴代中国王朝の税収の約半分は塩の専売による収入であった、などという話や、穀物生産の中心が地味が豊かな江南であったことなどが記述されており、どちらかというと河北的なものである「黄土」を副題に持ってきた意図が不明である。

明代を中心に、とはいいながらも実際に取り上げられる時代は古代から近代にも及び、よく言えば縦横に、悪く言えば散漫に文明論が語られる。テーマも、南北の対照的な性格、支配者の原理、反乱と革命、都市と農村、東洋的「婦道」など多岐にわたる。体系的な論考というより、様々なテーマのもとに中国文明の特質を考えるという調子で、読書中はなんだか「いつ本題に入るの?」と隔靴掻痒な感じがしたが、それぞれのテーマは面白く、これはこれでよかったと思う。

そういう意味では要約が難しい本で、とにかく小ネタをたくさん披瀝している。例えば、「極楽往生をねがう阿弥陀浄土が、柔弱な南人に支持されるに対し、現世の幸福をかちとる弥勒浄土が、北人の気質に合った(p205)」という記載など、簡単に書いてあるが、阿弥陀と弥勒という類似しつつ差異のある神格が平行して信仰される理由を明快に説明しており、ナルホドと唸らされた。

他にも、皇帝の朝はやたら早かったという話や、中国の経験した4度のファッション革命、中国法の集大成としての大明律の成立、漢代の古典儒教は北人的だが、近代合理主義の上に立つ新儒教主義は南人的であるなど、面白い話題が多い。