2014年6月27日金曜日

『ペクチン―その科学と食品のテクスチャー』真部 孝明 著

ペクチン―その科学と食品のテクスチャー (Food Technology)
ペクチンについての先行研究をまとめた本。

ペクチンは、食品のテクスチャー(固さ、食感など)を決める重要な物質だが、構造が複雑で植物ごとに千差万別な組成を持つこともあり、十分に解明が進んでいるとはいえない。であるから、食品製造業の現場においても、科学的というよりは職人の感的に扱われているきらいがある。

そこで、これまで分かっていることをまとめて、食品製造業やその基礎研究に携わる人への参考書にしてほしいというような意図を持って本書は執筆されている。

であるから、本書では膨大な先行研究(論文)が参照されて、これまで何がわかっていて、何がわかっていないのか、ということが示されるのであるが、その調子はやや羅列の感が強くとりとめのない箇所がある。軸足は基礎研究にあるので、ペクチンを食品製造の実際でどのように扱うべきかというテーマでまとめられていないのはしょうがないとしても、もう少し系統立った、すっきりした記述ができたのではないかと思う。

一方で、情報量は多いのでペクチンについての参考書としての価値は高く、ペクチンについて知りたいと思ったら必ず座右に置くべき本であると思う(というか類書もほどんどない)。数少ないペクチンの教科書・参考書。

※本書の内容については、別ブログ(南薩日乗)にも触れている。→「ペクチン」のお勉強

2014年6月22日日曜日

『おっぱいとトラクター』マリーナ・レヴィツカ 著、青木 純子 翻訳

ウクライナの近代史を下敷きにして移民のドタバタ騒動を描く気軽な小説。

最近ウクライナの政変があって、実際のウクライナ人は祖国の近代をどう見ているのだろうか? という、娯楽小説を読むにしては鬱屈した興味から手に取ったのだが、ウクライナの近代史に関しては詳しい記述はない。それは、ロシアにひどいことをされた、その後は西側諸国にいいようにあしらわれた、というだけの話で、(実際そのくらい単純な話なのかもしれないが)どこか一般論的というか、実体験した人ならではのディテールがない歴史観だと感じた。


娯楽小説としての出来は悪くない。特に前半の、色ぼけした老父が美女(ビザと金目当て)に目が眩んで結婚し、その生活がめちゃくちゃになるあたりはよく出来ている。だが、中盤で離婚闘争編に入ると少し中だるみというか、サスペンス仕立てにしようという意図はわかるが、少し騒動が地味になり、主人公の迂闊さや子供っぽさに頼った筋書きになっているような気がする。もう少し、荒唐無稽なネタを入れたり、人物描写に深みを持たせたりするなど、展開に変化を持たせた方が退屈しなかったと思う。

そして後半は「話を回収する」という感じが強い。中だるみしたせいでうまく話が深まっていないからか、話の筋が平板なものになっている。また、ドタバタ劇のおかげで家族間の確執が解決するという筋も少しとってつけたようなところがある(最後の最後に、娘に諍いをやめるよう諭される場面など、ない方がよかったと思う)。

それから、翻訳小説に慣れている人には気にならないことであるが、あまりに「翻訳文体」なのが少し気になるところ。この小説は、登場人物が悪態をつきまくる場面が多いので、もう少し罵倒にリアリティが欲しい。例えば「アバズレ」という言葉が出てくるが、これは日常語ではほとんど使われない単語であるから、「ヤリマン」くらいにしたらよかったと思う(まあ、これもあまり使われない単語だが、この小説ではやたらと若者言葉を使っているので)。

原題の『ウクライナ語版トラクター小史』は気が利いている。これは老父が作中で書いている本の名前で、かつて農業とエンジニアの国として発展していたウクライナが、パワーポリティクスに翻弄され衰退していく様を象徴するものとしてトラクターの歴史が語られているわけだ。ただ、話の筋とはほとんど独立して、単なる象徴として扱われているので、もう少し本筋のプロットと関係づけたら読者が退屈しないだろう。私はトラクターの歴史にも関心があるので全く退屈しないどころか、もっと詳しくトラクターの歴史を紹介してほしいと思ったくらいだが、娯楽小説としては収まりが悪い。

暇つぶしの娯楽小説として考えると出来はそれほど悪くないが、翻訳の生硬さもあってイギリスの「滑稽小説」(P.G.ウッドハウス的な)として見ると、笑いの要素は少ない。小難しくない程度に社会派の、昼ドラな小説。

2014年6月11日水曜日

『イスラーム農書の世界』 清水 宏祐 著

中世から近世のイスラーム世界で著された農書を概観する本。

10世紀から17世紀の中東イスラーム世界(アラビア語を共通語とし、ムスリムが中心となって構成されている世界)では、多くの農書が出現したという。本書では、それらの農書を地域的・歴史的に概観し、そのうちの一書『農業便覧』の内容をやや詳しく紹介した上で、中東の農業の特質を考察するものである。

本書には記載がないが、10世紀のイスラーム世界というと、いわゆる「アラブの農業革命」の時代にあたる。これは、このころのイスラーム世界で農業の生産性の飛躍的な向上と作物の広範な伝播が起こったとする説で、アンドリュー・ワトソンという人が1973年に提唱した。その後、革命といえるほどの大変化ではなかったのでは、という反論(例えばマイケル・デッカーという人が主張している)が出ているので、今の学界ではどのように考えられているのか分からないが、平均的な農業技術が進歩した時代であることは認められているように思う。

そこで、実際のイスラーム世界の農業はどのくらい発展していたのだろうか、という疑問を抱いて本書を手に取ったのだが、本書は農書をごくかいつまんで紹介するものであるから、農業そのものの有り様(例えば、どのような人が農業を担っていたのか、どのような土地制度だったのか、など)を説明してはいないし、中東の農業技術の発展段階についても世界的な比較を行って位置づけることはしない。例えば、中世において既に中東では条播きと中耕の技術が一般化していたが、ヨーロッパにこれが導入されるのは近代になってからであって、この面で中東の農業は欧州のそれに先んじているのであるが、そういった比較は本書ではなされないのである。

また、なぜ農書が出現したのか、という根本的な問題についてもあまり深く考察していない。農業というのは、現代においてすら口伝えや研修、いわばOJTによって学んでいくものであり、ましては中世においては書物を頼りに農業技術を習得するということはほとんど稀有なことだったに違いない。にも関わらず多くの農書が生まれたのはなぜか、というのは大きな問題で、本書ではその理由について(1)領地の経営を行うため、(2)一度農書が生まれるとそれを各地の気候や風土に合わせる必要がでてきたから、と簡単な解説を添えているが、それが本質なのだろうか? 私はこの点に関して、徴税の仕組みともしかしたら土地制度が関連しているのではないかと思っているが、本書を読む限りでは不明である。

というような不満があるのだが、なにしろ本書は中世イスラーム世界の農業というニッチな分野の入り口を用意する短い本なので、込み入った考察を期待するのは酷というものだろう。イスラーム農書の系譜を簡潔に述べる章だけでも本書の価値はあるくらいで、よくぞこういうテーマで本を書いてくれたと喝采したい気持ちである。

また、農書の内容については、本書が中心的に解説する穀物栽培のことはさておき、果樹栽培の技術が進んでいたらしいことに興味を惹かれた。本書ではほとんど果樹栽培の内容については触れていないが、これはより具体的に栽培技術を知りたいと思う。

とにかく、簡潔すぎることが憾みではあるものの、イスラーム農書という豊穣な世界の入り口となる貴重な本。

2014年6月5日木曜日

『Lemon: A Global History』by Toby Sonneman

レモンの辿った世界史を語る本。

先日読んだ『Citrus: A History』が期待はずれだったので、リベンジを期して最近出版された本書を手に取った。これは、レモンを中心としたカンキツの世界史を概説する本である。

アジアに発祥したカンキツ(シトロン)は、まずはユダヤ人によって祭祀に使われたことで西洋世界に広まった。だが、ユダヤ人たちがヨーロッパに直接カンキツ文化をもたらしたのではなかった。本書が指摘するのは、カンキツ栽培の技術を高め、栽培を広めたのはアラブ人たちの功績であるということだ。そのため、近代世界までのカンキツの大生産地は、シチリアやスペインといった、中世までにイスラム勢力により征服されていた地域と重なっている。例えばシチリアでは、レコンキスタ以降には、かつてアラブ人たちが作った灌漑設備を受け継いでレモン栽培が行われたのである。

ユダヤからアラブへと受け継がれたカンキツ栽培は、こうしてイタリアにもたらされた。そして、それを北部ヨーロッパへと伝えていくのがメディチ家である。フランスに嫁いでいったカトリーヌ・ド・メディシスがカンキツ文化を伝導するわけである。メディチ家は、カンキツのコレクターでもあり、大変な種類のカンキツ類を栽培していたようだ。カンキツ類は貴族たちのステータスシンボルとなり、ほとんどカンキツ類の採れないネーデルラント(オランダ)ではカンキツを静物画に描くことが流行した。

大航海時代には、レモンは壊血病の予防のために非常に重要な作物となる。長い航海中にビタミンCの欠乏から「壊血病」に罹るわけだがこれの「特効薬」がカンキツ類であることがわかったため、「命がけ」だった航海が比較的安全なものになったのである。このあたりの科学史について本書は詳しいが、私が疑問なのは、より古くからの航海者だったアラブ人は、そのことを知っていたのだろうか、ということだ。あるいは、他の予防法があってカンキツに頼る必要がなかったのかもしれないが、ここは非常に気になるところである。

米国にカンキツ産業が興ってからの歴史は、既に『Citrus: A History』で読んでいるところであるからさほど新味はなかったが、そこにシチリア系移民が関わっているというのが面白かった。

全体として、冗長な部分があまりなく、端正にまとめられている本である。著者はジャーナリズムを専門としており、レモン業界の人でも研究者でもないが、適度な距離感でレモン(を中心とするカンキツ類)の歴史を概説している。ただ、気になるのは世界史とは言っても結局はヨーロッパとアメリカの話しか出てこないことで、アラブの話をもう少し深掘りして欲しかったのと、本場である中国とインドのカンキツの歴史について触れてもらいたかったというところである。

レモンの(世界史ではなく)西洋史をコンパクトにまとめた本。