2015年6月17日水曜日

『世界史をつくった海賊』竹田 いさみ著

イギリスが覇権国家として発展した裏には海賊の活躍があったことを書いた本。

大航海時代、イギリスは後発国家として国際競争に参入した。最も早く国際貿易を確立したポルトガル、そしてそれに続くスペインといった先行者がいる中で、イギリス(正確にはイングランド王国)は不利な競争をせざるをえなかった。イギリスには羊毛や毛皮くらいしか輸出に適した製品はなく資源に乏しかったし、既に世界各国の販路は両国に抑えられていたのである。

そこでイギリスはならずもの集団である海賊を国家として活用するという奇策に出る。スペインやポルトガルの貿易船を略奪すればたくさんの富が手に入る上、スペインやポルトガルの国力を削ぐことも出来、さらには最新式の船まで入手できるからである。

だが表立ってそういうことをすれば国際問題になり弱小国家だったイギリスには分が悪い。そこで裏では海賊組織と手を結び、国家の手として足として海賊を使いながらも、表向きにはスペインやポルトガルとの友好関係を演出していたのであった。このため諜報活動に力を入れ、ある年では国家予算の15%が諜報活動に使われていたという。

私はフランシス・ドレークなどが国家公認海賊として国家の英雄として祭り上げられ、イギリス国民の鼓舞に使われたということは知っていたが、それはあくまで象徴的な意味のことだと思っていた。しかし本書を読むと、イギリスの国家財政を支えていたのはまさに海賊マネーであり、海賊による略奪は象徴的どころか手堅い商売だったのだということがわかった。

一方、私が本書を手に取った動機は本筋とは全く関係ないことで、イギリスの海賊たちはどんなものを食べていたのだろうということにあった。それについては簡素な記載があるだけで(当たり前のことです)詳しくわからなかった。船上ではかなり貧しい食事に耐えていたことは間違いないだろうが。

なお、『世界史をつくった海賊』という表題であるが、本書の主人公はあくまでもイギリス国家であり、国家が海賊をどう利用したか、という観点で書かれている。海賊が主体的に何を望みどう行動したか、ということはあまり明確ではない。それどころか、ある意味ではイギリスの政策にいいように使われたようなところがあり、イギリスが貿易立国として成長し海賊マネーが不要になるとあっさりと切り捨てられている。

だからもうちょっと、海賊たちそのものを描いて欲しかったという気もする。ただ国家に使われたというだけでなく、彼らも国家を使ったのであるから、その駆け引きというか、国家v.s.海賊という視点もありうるのではないかと思った。

とはいえイギリス近代史と海賊の関係がよくわかる本。

2015年6月11日木曜日

『無縁声声 新版―日本資本主義残酷史』平井 正治 著

日本の資本主義の裏側を大阪・釜ヶ崎から語る本。

著者の平井正治は日雇い労働者として釜ヶ崎に30年も住んでいる人物。しかし凡百の日雇い労働者とはワケが違う。数々の労働運動を興すとともに、史資料の渉猟やフィールドワーク(という言葉は本書には出てこないが)によって日本の資本主義発展史を最も凄惨な現場の渦中から紐解いてきた、知る人ぞ知る人物である。

その内容は、基本的には著者の自伝であるが、その実全く自伝の枠を飛び越えている。そこでは当時の社会的事件の背景、そこに至る歴史が縦横に語られ、それはほとんどアナール派の歴史記述を思い起こさせるような重厚さがあり、しかもそれが軽妙な大阪弁で表現されているのだから、唸るしかない。

著者が一環して語るのは、いちばん底辺の労働者がどれだけ置き去りにされてきたかということである。特に港湾労働、土木労働といった景気と国策に左右される産業の労働者たちのことだ。そして彼らがどれだけ日本資本主義の犠牲になってきたかということだ。

例えば新幹線の工事ではこうだ。こういう土木工事は多くの人手がいる。だから広くから労働者を集めてこなければならない。しかし常雇いは出来ない。なぜなら、新幹線が開通してしまった後はその労働力は不要になるからだ。しかも工事中だってそうである。生コンを打つ時は多くの人手がいるが、生コンを打ってしまったら固まるまで次の作業ができないのでその労働力は遊ぶことになる。

だから労働力はその日暮らしの底辺労働者で調整することになる。そこで「手配師」の出番だ。半分ヤクザみたいな斡旋屋である。甘いことをいってその日の金にも困っている労働者を連れてくる。もちろん彼らはただ職場を斡旋するワケではなく、やれ食費だ衣料品費だ衛生費(トイレ使用料)だといって手当をピンハネするのである。それでも立場の弱い日雇い労働者はそれに何も言えない。何よりヤクザに反抗するのも怖い。

そして労働者は危険にさらされる。まともな労働衛生は期待できない。アスベストを扱う仕事でもマスクひとつくれない。そういう日雇いの担当する仕事は、孫請けのさらに下請けがやっているような仕事で、何重にもピンハネされた上に何の保証もないものだからである。元請けの大企業が発注する時は、もちろん労働衛生費まで計上されている。だがそれが下請けに出される度に削られていく。何重もの調整構造の中で、全てのしわ寄せが底辺労働者へいく。

さらに無理な日程で無理な作業をするから事故が起きる。そして労働者が簡単に死んでいく。日雇いで働いているような人の命は軽い。労災ではなく、交通事故として処理されたり、身元を調べることもなく無縁仏として処理されたりする。死んだのが誰かなど、誰も気にしない。過去を捨てた人間がドヤ街に集っているのだから。

こうして、彼らに押しつけられた矛盾はなかったことにされていく。

それに反抗するのが著者の平井である。筋が通らないことは許さない。ただゴネるのではなく、理路整然と、諄々と、そして時に激しい言葉で不正を追求する。ある時は、たった数百円の手当を認めさせるのに4年かかったという。例えば汚れる仕事にはその分手当を上乗せすべき、そういう「公正さ」を追求するのに妥協はしない。そういう男である。

実行力と知力を兼ね備えた人間である。やろうとすれば、日雇いの境遇から抜け出すことなどたやすかっただろう。だが平井は釜ヶ崎でほんの少しの労働環境の改善を成し遂げることに全力を注いだ。どうしてそういう茨の道を歩んだのか、本人にもよくわからないらしい。本書の末尾につけられた対談で一言「黙ってられん」からだと笑っている。

本書を読むと、オリンピック、万博、新幹線といった国策による大規模土木工事がいかに不正と事故の温床になってきたかということに気づかされる。そういった「国の威信」を賭けた工事は遅れるわけにいかない。だから無理なスケジュールが組まれる。十分な安全策をとれなくなる。そして工事が終わって不要になった労働者のことなど知ったことではない。見捨てられた労働者は、やがて街の掃きだめへと追いやられそこが次のドヤ街になる。このように労働者を使い捨てて出来たのがオリンピックや万博の会場であり、新幹線だった。

どうしてそんな不条理がまかり通っているのか? それに対する明確な説明は本書にはない。ただ、行政、政治、産業界とヤクザの馴れ合いと癒着の構造が示唆される。日雇いの弱い労働者を使い捨てることで維持されてきた「国の威信」や「経済成長」。「必要悪」という便利な言葉で温存されてきた古い労働のやり方。こうしたものに向き合わない限り、日本には本当の「経済成長」はありえないのではないか?

そして今、再び東京オリンピックの開催が決まっている。無理な設計によって既に工事は波乱含みだ。だが日本のゼネコンは工期を守るだろう。弱い労働者のおおきな犠牲の上に。今度のオリンピック会場にはいくつの人柱が立つのだろうか。

実は戦前にも東京オリンピックの開催が決まったことがあった。皇紀2600年事業(昭和15年)の一環で政府はオリンピックと万博を誘致したのである。これは古い「東京」をぶち壊して国家にとって都合のよい「東京」に変えるための大規模土木工事だった。オリンピックと万博のためということで東京-下関間に高速鉄道を作ろうとした。いわゆる「弾丸列車」である。

しかしこれは、実際には軍事物資の輸送のためのものだった。太平洋戦争で日本が東南アジア諸国を獲得すると、この高速鉄道の計画は順次延長されてシンガポールまでの延長が構想されたという。

結局オリンピックや万博は戦争のために中止されて、弾丸鉄道も戦争中は実現しなかったが、これが戦後の東海道新幹線へと繋がっていく。そして戦前実現しなかったオリンピックや万博も戦後にはどんどん開催され、その裏で日雇い労働者たちは都合よく使われ、そして押し潰されていったのであった。

そしてこの構造は、今でも全く変わっていない。派遣労働者という新たな日雇い人夫の置かれた状況はますます厳しくなっていく。その一方で「過去最高益」を記録する大企業。どこかおかしい。日本がほんとうの意味で「経済成長」するためには、あと百人の平井正治が必要だろう。

横山源之助『日本の下層社会』や鎌田慧氏の一連の著作に連なる、日本の社会を考える上での必読書。