2015年10月1日木曜日

『ハイパー・インフレの人類学:ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』早川 真悠 著

ジンバブエで著者が経験したハイパー・インフレについて見聞記的に語る本。

著者はジンバブエの大衆音楽の人類学的研究をするために同国へ滞在していた。そこで図らずもハイパー・インフレーションという異常事態を経験して音楽の研究どころではなくなり、研究テーマを急遽ハイパー・インフレに変更、ハイパー・インフレ下という混乱の中を自ら生きながら、社会がどのようになってしまうのかを現地で見つめ、博士論文として書いたのが本書(の元になったもの)である。

こういう言い方は不謹慎だが、ハイパー・インフレ下の社会の混乱は、はたから見る分には面白い!

ジンバブエのハイパー・インフレはもの凄いもので、2008年7月の公式統計では月間2600%ものインフレとなっていた。その後インフレがすさまじすぎてインフレ率を計算することもできなくなり公式統計が停止。インフレ末期の2009年11月では何と月間769億%ものインフレとなっていたと推計されている。これは年間インフレ率にすれば897垓(10の20乗)%という天文学的数字になる。

ここまで来ると「ものの値段が上がる」とか「お金が減価する」というような甘いものではなく、「経済自体が解体」されていってしまう。本書は、経済がどのように解体されていったのか、ということの観察が主要なパートになっている。

インフレも月間インフレ率50%〜150%あたりをうろうろしていた2007年頃は、人々はそれなりに対応していた。それどころか、こうした混乱を商機として零細な商売が活発にすらなった。サラリーマンや公務員は月給制であるためインフレには脆弱だが(何しろ1ヶ月で給料の価値が半分程度になる!)、その日暮らしの零細商売の場合は逆に強いからだ。

そして政府がインフレをコントロールしようとする価格統制などの措置が、さらに公式経済を衰退させた。実質的にインフレしているのに、価格統制されたら商売あがったりなわけで、スーパーマーケットからは商品が姿を消し、生活必需品にすら事欠く有様となった。こうした中、人々は露天商や闇市といった「非公式経済」に頼るようになり、携帯電話の通話カードを売る露天商が公務員やサラリーマンにお金を貸すようにもなってゆく。

インフレとは、ただお金の価値が減じていくだけではない。ジンバブエでは深刻なお札不足にも陥った。ジンバブエのお札はドイツの会社が印刷していたが、EUによる制裁措置(選挙での不正への罰則)としてドイツからお札を仕入れられなくなった。預金しておいてもどんどんお金の価値が下がってしまうので、インフレ下ではただでさえ人々は預金ではなく現金を持ちたがる。しかし現金を引き出そうとしてもお札が足りない!

これに対し政府は預金の引き出し制限を実施。引き出し上限額は当初はそれなりに合理的だったが(約60米ドル/日)、やがてインフレに応じて引き出し上限額をどんどん引き上げても追いつかなくなり、2008年7月には、1日の引き出し上限額では新聞を1部買うこともできなくなるという有様(1.1米ドル/日)。これでは給与生活者は、たとえ毎日銀行に並んでも生活に必要なお金を手に入れることが全くできなくなったのだ。

こうしてジンバブエでは預金と現金が「非公式には」全く違うものとして扱われた。額面価格は同じでも、預金でのお金と現金でのお金では、現金のお金の方が高い価値を持つものとされた。つまり現金と預金の間の闇の為替レートがあったわけだ。さらに、外貨との為替レートも公式レートと闇レートがあって、さまざまな価値尺度に公式と非公式が入り交じり、ものの価格を表すのに、預金ならいくら、現金ならいくら、外貨ならいくら、と様々な表現手段が用いられた。

このようになってくると、なぜ人々は価値の安定している外貨を使わないのか、という疑問が生じる。ジンバブエドルを手に入れたら、それをすぐに米ドルに替えるのが合理的な気がするが人々はそのようにはしない。本書のテーマの一つは、価値がすさまじい速さで減じていくジンバブエドルを人々がいつまでも使い続け、外貨経済に移行しないのはなぜなのか、ということである。

ただ、これについては現地の状況を見てみるとそこまで不思議なことでもないらしい。というのは、外貨はその経済にとって例外的な存在で、いくら価値が安定しているといっても人々はそれを普段の生活で使うものとは見なしていない。そしてそれ以上に、外貨は絶対的に不足しているということがある。例えば米ドルを使うにしても、1米ドル札だけでは事足りない。1枚の1米ドル札に対してずっと多くのおつりの貨幣が準備されていなければ、商売は成り立たないのだ。しかし外貨の小額硬貨をまとめて入手するのは困難だ。銀行ではジンバブエドルですら僅かずつしか引き出せない状況だというのに! おつりを準備することができないという現実的な問題から、草の根の自主的な対応としての外貨への移行は決して簡単なものではなかったのである。

やがてジンバブエのハイパー・インフレは、天文学的領域へと突入していく。本書の白眉がここだ。

あまりにもインフレ率が高くなりすぎ、商店では1日に3度も価格を付け替えるようになる。そして誰も本当のジンバブエドルの価値がわからなくなり、ものの値段もつけられなくなっていくのである。価値が変動しているのは「お金」だったはずなのに、「ものの価値」の方も解体していってしまうのだ。

それはこういうことだ。例えば、タバコ1箱というのは、それなりに安定した価値があると見なせるだろう。タバコ1箱が500円だったとして、それが翌月に1000円に値上がりしたとすると、お金の価値は半分になったと考えられる。これが普通の「ハイパー・インフレ」の世界である(ちなみに、ハイパー・インフレとは月間インフレ率が50%以上のインフレのこと)。しかし翌日に1箱が1500円になり、その次の日に3000円になるような世界だったとするとどうだろう。商店主は、400円で仕入れたタバコをいくらで売れば商売が成り立つのか、それすら分からなくなる。今そのタバコの価値はどれくらいなのか、売っている本人の方も知らないという事態が生じるのだ。

そうなると、タバコの価値はもはや客観的には決められない。首尾一貫した価格付けはもうできないのだ。タバコを売ってくれという客が、どれだけ切実にタバコを求めているか、商店主がタバコを早く現金化したいと思っているかどうか、そういったことの総体として暫定的にタバコの価格が決まるのである。だから、タバコが1箱500円の時に、横に置いてあるティッシュペーパーが4000円もする、というような奇妙な事態が起こりうる。要するに、価格付けはめちゃくちゃになって、その場しのぎでしか価格が決まらなくなってしまうのだ。

価格がめちゃくちゃになるということは、ものの価値が人間関係やその場での状況に寄るということである。もうこの段階にまで来ると、人々は持ちつ持たれつでお金ともののやりとりをするようになって、ジンバブエドルの「存在」そのものが無価値になっていく。お金によって作られた価値体系が崩壊して、人間関係と社会的文脈による価値体系が澎湃として沸き上がってきたのだ。それでなくてもジンバブエは、インフレ・もの不足・金不足のために、人々は路上で、職場で、どこででも、立ち話をして情報交換をし合う社会になっていた。今日牛乳を売っているのはどこか、今の闇為替レートはどれくらいか、乗り合いタクシーに乗るのに今日はいくらかかるのか。それに社会階層は関係なかった。露天商、公務員、サラリーマン、知っている人も知らない人も、普段は交わることのない人々がごた混ぜになり、ある意味で社会が一体化したのである。

その頃になるとインフレが激しすぎて零細商すら没落。社会全体が混乱の渦に巻き込まれどうにもならなくなり、政府は外貨を公式に認めてインフレが終熄(ジンバブエドルも引き続き公定通貨ではあったが実質上廃止)。

それによって社会はどうなったか。これまで路上で長話をしていた人はいなくなり、これまで親しげに話していた露天商とサラリーマンはまた他人のようになってしまった。人々を結びつけていた何かはもうなくなって、何も面倒なやりとりをしなくてもお金が決める価値によってスムーズに取引ができる社会になった。もちろんそれはいいことだ。牛乳一本買うために、人間関係がどうだこうだ、という社会はいやだ。しかしジンバブエの経験した一時期は、「お金の存在そのもの」に対して鋭い問題提起をしているように見えてならない。

本書は、出版社の紹介文によれば「一元的貨幣論に縛られた経済学への反論」だそうだが、そんなつまらないものではないと思う。著者は(専門ではない)経済学の勉強は実直にこなした印象があるが、経済学的な分析についてはさほどのことが書かれていない。もちろん人類学的な分析というのも深くはなく、見聞記のレベルを出ていない。しかし単なる見聞記だからこそ、お金というものが社会をどう形作っているのかまでも垣間見た気がする。著者自身の深い洞察というものはないが、実体験した人だからこそ書ける貴重な記録である。

ハイパー・インフレを通じて「お金の存在そのもの」の意味を考えさせられる面白い本。


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