2017年12月28日木曜日

『西行』目崎 徳衛 著

実証的に執筆された西行の伝記。

古今、西行に憧れる歌人・俳人は多く、松尾芭蕉が西行を慕い、自らの旅を西行のそれになぞらえていたことは有名である。私が西行を知りたいと思ったのも、芭蕉や多くの歌人たちの目を通して西行を知っていたからである。

しかしそのせいで、西行には多くの伝説や憧れが付託され、本当の西行がどんな人物だったのか分からなくなっている。本書はそうした伝説を排し、実証的に西行の人生を語るものである。

例えば、西行と言えば「旅に生きた」と思われているが、実際に旅に出ていた期間は短く、また移動距離もそれほど多くないらしい。我々が文学を通して知っている西行と本当の西行は、細かい点で違いがある。

西行は、名門の家に生まれ、特に弓馬の術についての故実(しきたり)の権威の家柄であった。彼は若くして官途に就き、実際に官人として勤めた期間は短かったものの、遁世後でさえも弓馬の術の権威として認められていた。

また、彼は数々の名歌によって女性的ともいえる細やかな感性を持っていたことが知れるが、同時に剛毅な風貌と果断な実行力があり、歌に生きるたおやかな人物というわけではなかった。

そういう西行がなぜ出家したか、というのは西行自身が書き残していないので推測でしかわからない。著者の説は、西行は歌に生きるために出家したというものだ。官人として生きれば、家柄の上下関係や慣習にしばられ、政治的に左右されるという不自由な生き方しかできない。西行が遁世した頃は戦乱の直前でもあり、官人として生きるよりもその埒外に飛びだし、出家者として生きる方が自由にその才能を発揮しうる環境があった。まさに出家というのは、近代以前の社会において一種の「個人主義」を貫ける唯一の道だった。

彼がそういう自分の思いを託したと思われる歌にこういうのがある。
身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
「身を捨てる(=出家する)人は、本当にその身を捨てているといえるだろうか、身を捨てないでいる人こそ、その身を無駄に捨ててしまっているのだ」という意味である。西行にとっては、官人として安定した暮らしを送る方が自分を捨てることだったのだろう。

とはいえ、西行は名門の生まれであり、所領からの収入もあった。妻子もいたようである。身を捨てるといっても、全くの無一物になったというよりは、そうした家の収入があってこその出家だった模様である。

そして、自らの数寄心に殉じて出家したと思われる西行だったが、仏道にも真摯に取り組んだ。西行は30年もの間高野山に草案を結び、仏道修行に明け暮れた。さらに、やがては勧進(寺院の造営のために寄附を募る)のために大きな働きをするようになっていく。我が道を進んで遁世した西行は、円熟するにつれて仏道のため、経世済民のために力を尽くしていった。

そして、歌を詠み、社会事業にも携わる中で、本質的には矛盾する現世での数寄と来世の救済が西行の中で融合し、やがて優れた歌は陀羅尼・真言と同一なものであるという信念に至ってゆく。数寄と仏道の統合が、西行がたどり着いた究極の和歌観であった。

こうして西行は73歳の生涯を終えた。彼は入滅を歌で予告し、おそらくは偶然によってその通りになったものだから、その劇的な最期は人々に衝撃と感動を与えた。

さらに、死後に成立した『新古今和歌集』は、西行に心酔していた後鳥羽院が作ったものであるため、そこには94首もの西行歌が収録されていた。「15年前に世を去った一介の遁世者が、門地最高の慈円・良経、歌壇の巨匠俊成・定家・家隆、さらには治天の君後鳥羽院さえも凌いで、栄誉ある筆頭歌人の地位を占めた」ことで、西行伝説が加速していくのである。

西行はもはや人々が理想を付託していく存在となっていった。そして、人々は西行を通じて数寄の世界に入っていくようになるのである。「西行」は旅と歌と仏道を統合する一種の「世界観」となっていったように思える。そして、現実の彼にも十分にその資格があったのだ。

西行の人生を多面的に検討し、伝説の成立する過程までも考察した良書。


2017年12月25日月曜日

『本屋がなくなったら、困るじゃないか:11時間ぐびぐび会議』ブックオカ 編

福岡で行われている本のイベント「ブックオカ」の一環で行われた、本の出版・流通・販売に関する座談会の模様をまとめたもの。

本書は、11時間の座談会の書き起こしに、インタビュー等の記事を付け加えたもので、本の出版から小売りに至るまでの様々な人たちが、自分なりの考え方でなんとか「本」の世界で生き残っていく方策を探るものである。

本の業界は、近年非常に厳しくなってきている。街の本屋だけでなく、取次(とりつぎ:後述)すら倒産する世の中だ。その大きな原因は雑誌の不振にある。これまでの書店のビジネスモデルでも本の販売ではほとんど儲けはなく、雑誌の販売でそれを補うという形になっていたが、雑誌の売上が急激に落ち込んできたことで、これまでのやり方が通用しなくなってきたのだ。

なぜ本の販売では儲けが出ないのか。その背景には、取次による「委託配本システム」がある。取次とは「本の問屋」であり、「委託配本システム」とは、この問屋が書店に対して本を自動的に納品するという日本独自の配本方法である。「自動的に」と書いたのは、この配本が書店からの注文に基づかないものであるためで、逆に言うと本屋は売りたい本があってもその本を取次から入手するのは難しい(手間がかかる)仕組みになっている。

だから、書店に欲しい本を注文するというのを、地元書店を応援するつもりでやっている人は多いだろうが、実はこの注文(客注という)は書店にとって有り難くないものだ。取次に言っても、その本は入ってこないのだから。だからお客に対して「3週間かかります」などといって客注を受けないようにするところも多い。取次に注文しても納品されないから、近所の大きな本屋から直接調達したりすることさえある。

また、村上春樹の『1Q84』などが出版された時、大型書店には山積みになったのに零細書店にはほとんど希望数納品されなかったということもあった。これは「委託配本システム」の問題というよりは、出版社から書店への納品数指定の問題(大手の出版社は、書店毎の納本数を過去の実績に基づき指定して取次に納本する)であるが、今『1Q84』があれば売れるのに! という街の本屋からすれば、自由に注文できない取次システムは商売の足かせになっているのである。

これは要するに、仕入れたいものを仕入れられない、むしろ売れない本が勝手に送られてくる、という馬鹿げた仕組みであるから、「委託配本システム」の評判は悪く、取次の悪口は多いのであるが、本書の座談会には取次からもメンバーが入っていて、普段は見えづらい取次としての考え方も開陳されるのが本書の面白いところである。

そもそも、何千とある出版社の、何十万という本のタイトルから自らの書店で売りたい本を選び、発注し、伝票を起こし、請求をし、入金を確認するということはほとんど不可能なことだから、取次自体は必要な存在である。その上、特に弱小出版社の本などは取次が「委託配本システム」によって頒布しなければ、陽の目を見ることすら難しい。出版社にとっては、例えば3000部刷ればとりあえず全国の書店に3000部並ぶ、ということがあるだけでもこのシステムは有り難い。

また、戦前の苛烈な言論弾圧の反省から、取次ではどんな本であれ(=いくら売れなさそうでも)一度は流通させるという、インフラ的な矜恃を持っている。取次が配本しなければ、その本は事実上存在しないのと同じことになる。だから、売れる売れないに関わらず、半ば強制的に書店に卸す仕組みが必要だと考えている。書店が欲しい本を欲しいだけ入荷できないというのは、ある意味ではこの仕組みの副作用なのだ。

その上、取次はこれまで、出版社・書店の双方に金融機関的な機能を提供してきた。これについてはちょっと説明が必要だろう。日本には本の再販制度がある。これは、本は定価で売らなくてはならない代わり、本は返品可能なものとして書店に納品されるということである。要するに、本は書店の在庫というよりは、書店の「資産」でもある。だから月末に10万円資金が不足したとすると、10万円分の本を取次に返品すれば事なきを得るということになる。出版社にとっても、本をとりあえず3000部刷って取次に納品すれば、その分の収入はすぐに得られるということになる。その本は実際には売れる見込みがなかったとしてもだ。取次があるおかげで、書店も出版社もこういう方法で経理のやりくりをすることができる。

そういう実態を考えると、取次への文句というのは、「これまでなんでもやってくれたお母さんへの不平不満」みたいなものであるという。今、業界全体が縮小していく中で相対的に少数である取次への不平不満が目立っているだけで、実際には出版から流通に関わる全てのシステムが見直しの時期を迎えているというのが事実だろう。

一方、日本と同様に本の再販制度がありながら、日本とは違った本の生態系を作ってきたのがドイツであり、座談会ではドイツのやり方が詳細に報告されている。まず、ドイツでは本の返品率は5%程度だという。日本の場合はものによっては40%にも上ることがある。その差は何か。ドイツには委託配本システムがなく、配本はあくまで書店からの注文に基づく。しかも、いつでも希望の本を注文でき、それがすぐ届くという安心感があるから、必要最低限の本しか注文しない。だから返品率が低いのである。

また、ドイツの書店は日本のそれのように本が大量に陳列されていないという。本は平売りなどの複数冊の販売が普通で、要するに書店がセレクトショップ化している。売りたい少数の本を売りたいだけ入荷し、書店の固定客に対して売っているから返品が少ないのである。

これは逆から見ると、書店からの注文がなければ本は出荷されないということになる。だからドイツでは出版点数が少ないのではないか? と思うが、ここがすごく不思議なところで、ドイツでも日本並みに(=つまり大量の)本が出版されているのだ。ただし、日本とドイツで違うところは、日本の場合は独立系の小さな出版社がたくさんあるということだ。ドイツだけでなく諸先進国では、小さい出版社もあるにはあるがそれらは少数の大出版社の傘下のグループ企業となっており、配本などのシステムは共同化しているということである。やはり、取次による委託配本システムがなければ弱小出版社が成り立って行かないというのは事実のようだ。

そして最も大きなドイツと日本の違いは、ドイツの本の定価は日本の倍くらいするということである。定価が倍だから半分しか売れなくても売上は同じになる。このことで本の粗利を高め、本を売ることで儲けが出るようにしている。大量に売る必要がないからシステムに無理がないのである。

とはいえ、Amazonや電子書籍といった「黒船」への対応も徹底的にやっている。ドイツでは出版・流通・書店の業界がこうした「黒船」の脅威をともに認識し、非常なる危機感をもってこれに対抗しうるシステム(流通の効率化や電子書籍対応)を業界全体で構築してきたた。ここが日本と全く違うところで、日本の場合は、業界全体としてその危機感を共有できず、今までのシステムを引き続き使い続ける前提で座して死を待っているような様子である。

このままでは日本の本屋はやっていけないのである。

そこで本書では、どうにかこれからも出版・流通・書店を続けて行きたいという思いで新進気鋭の取り組みをしている人たちが紹介される。取次に頼ってはあるべき配本ができないという考えから、書店への直販を始めた出版社。既存の取次とは違った本の取り扱いをしたいという思いで、たった一人で取次を始めた人。そして本が売れない中でも、なんとか書店をやっていきたいと様々な取り組みをしている書店員。

そうした様々な事例における問題意識や解決策は、大まかには次の2つにまとめることができる。
(1)委託配本システムのような書店不在の流通システムはもはや崩壊しているから、取次はインフラとしてのあるべき姿に帰るべきで、流通を合理化させ、必要なところに必要な本を必要なだけ配本できる存在(問屋として当たり前の存在)にならなければならない。
(2)本を売ることで儲けを出すことは、現状の定価で行く限り不可能なので、書店は本以外の取り扱いを増やす必要がある。例えば、カフェ、雑貨、文具、実用書に基づいたサービス(例えば楽譜を扱う店なら音楽のレッスンをする、レシピを扱う店なら料理教室をするといったような)などが考えられる。

ところで、本書は様々な立場の人からの発言があるので、出版・流通・書店のそれぞれの考え方を多面的に見ることができるのであるが、そこに一つ顕著な特徴がある。それは、「我々は求められているんだ」という需要側の論理で話す人がほとんどいない、ということだ。例えば書店で言えば、ほとんど全員が「Amazonがあれば消費者には十分だ。むしろAmazonの方がずっと便利だ」という考えで話しているように見える。その上で、「だけど我々はこの街で本屋をやっていきたい」といっているのだ。書店が求められているからやっていきたいというのではなくて、「書店はいらないかもしれないが、私はやっていきたい」という、ある意味では手前勝手な理屈で押し切っている。

出版においても同じである。もちろん弱小出版社がキラリと光る本を出すこともあるので、そういう出版社も求められていないわけではない。しかしそれ以上に、「自分たちは出版以外で働くことはできないんだ」というような、やむにやまれず出版社をやっているようなところがある。

つまり、本の業界には「本に魅入られた人たち」がわんさか働いていて、そういう人たちは社会から求められていようが、求められていまいが、「本の世界」で生きていきたいのである。これは「もう勝手にしろ」というような部分もあるが、でもそういう「本に魅入られた人たち」が文化の根底を支えてきたという面もあると思う。こういう人たちが蠢いている世界だから、私などはこんなに面白い業界もないと思ってしまうのである。

なお、本書全体を通してみて思ったのは、やはり本の価格が低すぎては他の取り組みもできないので、まず本の価格を上げるということが必要だということだ。例えば、600円の文庫本を900円にする、1500円の単行本を2300円にする、というようなことを。現在の出版流通では、すぐにゴミクズになってしまうようなチープな本を自転車操業的に回していかないと資金繰りができない形になっているのが大問題である。もっと息の長い出版活動ができるようにならない限り、改革しようにもその余力もないと思う。

また、本書では図書館と古書店についてはほとんど扱われておらず、話が新刊のことに終始しているのでその点は少し不満だった。それから本書のテーマとはちょっと違うが、雑誌の編集プロダクションの人の話もあればまた違った視点から書籍流通のことが見えたかもしれないとも思ったところである。

しかし福岡という辺境の地で(といっても鹿児島から見たら十分すぎるほど都会)、このような業界を根底から見直す座談会が行われ、その議事録が立派な本になって出版されるというのは心強い。

変化は辺境から始まる、という。今はまだ小さいながら、本の未来を見据えた取り組みを垣間見ることのできる力強い本。


2017年12月4日月曜日

『生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆』角山 榮 著

産業革命以後19世紀半ばまでの、イギリスの市民生活について書いた本。

言うまでもなく、産業革命を発端とした近代的産業の成立は人々の暮らしを大きく変えた。イギリスは、いわばその変化の先頭に立った国である。本書では、産業革命によって引き起こされた社会生活の変化を、主に下流から中流階級を中心として見ていくものである。

産業革命は、新産業の勃興であったが、それは違った面から見ると旧産業の破壊であった。これは平和的に移行した部分もあれば、例えばインドのキャラコ産業のように、意図的に撲滅させられた場合もあった。イギリスはどうしてもインドのキャラコ産業に打ち勝たなくてはイギリス製の綿布を普及させていくことができなかったため、インドのキャラコ職人を捉えて腕を切り落とし、あるいは目をくりぬいたのであった。

そういう非情な手段が使われたわけではないが、イギリス国内でも平穏な農村の暮らしは破壊され、社会的な平衡状態は打ち砕かれたのである。

そうして、都市には新たな社会が勃興してきた。この新たな社会は、貧困にまみれた労働者と、新興の資本家によって象徴される。労働者は汚穢の中で生き、満足な食事も摂ることができないまま長時間働かされ、ひどいところでは平均寿命は15歳の短さだった。この境遇は、経済発展によって自然に解消されることになるが、産業革命の背後には、当初は黒人奴隷、そして次にイギリス国内の労働者の犠牲があったのである。

一方で、新興の資本家は、富を背景にしてやがて貴族のマネをし始める。当初は富と社会的地位は必ずしも一致せず、資本家はいくら大金持ちであっても、貴族よりは権威が低いと思われていたが、資本家も広大な土地を購入して邸宅を構え、貴族と変わらない暮らしをするようになると次第に貴族との境界は薄れていった。

このように、産業革命で旧産業や旧社会のしくみが崩れ、身分制のタガが外れてくると、下流階級は中流階級のマネをし、中流階級は上流階級のマネをするという現象が生じてきた。これは、一見してそう思うほど当たり前のことではない。フランスではこの頃、階級制が割とはっきりとしていたため、イギリスのような階級上昇のメカニズムが働かなかった。隣の人よりも、いい暮らしをしたい、少なくとも「いい暮らしをしているように見せたい」という虚栄の気持ちが、余暇を削ってでも労働に勤しむという行動を産み、経済発展に繋がっていった。

本書でも、「勤勉」の理念の元としてウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が援用されて説明されるが、これは今日ではほぼ否定されている説であり、それよりも、この「虚栄」が「勤勉」に繋がっていくという説の方が説得的と感じた。

本書ではこうした通史的部分の他に、コーヒーハウスが社会に果たした役割、服飾革命など生活の国際化、食事・娯楽・旅行など生活のレジャーの面、上流階級の生活といったものがトピック的に扱われ飽きさせない。

著者の角山 榮は経済史家。この他、川北 稔と村岡 健次が執筆している項目がある。

産業革命以後の社会変化を裏側から見る面白い本。


2017年11月26日日曜日

『島津久光=幕末政治の焦点』町田 明広 著

幕末の政局における島津久光の重要性を強調する本。

島津久光は、西郷と反目したことであまりよく思われていない。それどころか、暗君とされて西郷や大久保の足を引っ張ったとされ誤解されている部分がある。だが実際には、幕末のある時期においては久光が中央政局をリードしたし、久光がいなかったらおそらく明治維新は違った形になっていたと思われるのである。

本書では、久光の政治的イデオロギーである「皇国復古」を分析し、次に文久2年の「率兵上京」から「八月十八日政変」に至るまでの歴史の流れを久光を中心として追うもので、特に久光の周囲からの評価については詳しい。

文久2年の「率兵上京」とは、久光が一千の兵を率い、本来は立ち入りが禁止されている京都へ入り、その後幕政改革を詰め寄るために勅使を護衛して江戸へ赴いた事件である。

この大胆な行動は、決して武力によって無理を押し通したわけでなく、久光の政治的バランスが遺憾なく発揮され、周到に進められたものであったことが詳述されている。

そこから経年的に久光の行動が追われ、「寺田屋事件」等についても詳しく分析されてから、「朔平門外の変」へ進み、「八月十八日の政変」へと繋がっていく。

「八月十八日政変」については、一般にはあまり知られていない事件であると思う。これは、宮中の過激な攘夷派を一夜にして追放し、穏当派が実力で政権を取ったという人事上の政変である。詳しくは本書を参照していただくとして、これが維新史における重要な転換点の一つであるという。

これについては、久光自身の行動はあまり述べられていない。というのは、この頃は薩摩藩では薩英戦争の処理で忙しく、久光やその側近の多くは中央政局のことに関わっていられなかったのである。では誰がこの政変を主導したのかということになるが、従来はそれでもやはり久光と大久保が裏で手を引いていたのだろうとされていた。しかし著者は、関係者の書翰類を丁寧に分析することで、この政変は高崎正風が中川宮 (久邇宮朝彦親王)と謀って独断的に実行したものであることを論証している。これは説得力のある説だと思った。

本書を通じて思うのは、孝明天皇が非常に久光を信頼し、期待していたということである。天皇からの信頼を勝ち取ったことが、「皇国復古」を推し進める上で久光を有利にした。そして、久光はほぼその構想の通りにことを運ぶことができ、政治上では大きな失敗をしていない。にも関わらず、明治維新は久光の思惑とは違う方向へ動いていき、久光は明治政府からはやがて疎まれていくのである。ここは歴史の皮肉としかいいようがない。

なお本書は、維新史の大枠を理解している読者を対象としており、概況説明については少なく、ルビがない人名が多い。引用は書翰が中心で、内容は少し専門的である。歴史をより深く理解するための本であり、維新史を通史的に学ぶものではない。

その功績を忘れがちな島津久光に改めて光を当てるやや専門的な本。

【関連書籍】
『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』芳 即正 著 
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post.html
初めて書かれた島津久光の伝記。鹿児島の明治維新にとって過小評価されてきた、島津久光を再評価する重要な本。


2017年11月24日金曜日

『続・発禁本』城 市郎 著

明治以来の様々な「発禁本」を紹介する本。

著者の城 市郎(じょう・いちろう)は、「書痴」と呼ばれた斎藤昌三から薫陶を受けて発禁本の研究に入った人物。

本書に取り上げられている発禁本・テーマは以下の通り。
『恋愛文学』ほか……青柳 有美
『都会』ほか……生田 葵山
『復讐』……佐藤 紅緑
『ヰタ・セクスアリス』……森 鷗外
『ふらんす物語』ほか……永井 荷風
『男犯』ほか……武野 藤介
『クロポトキンの社会思想の研究』……森戸 辰男
『刑法読本』・『刑法講義』……滝川 幸辰
『大日本裏面史』……樋口 麗陽
『古事記及日本書紀の研究』……津田左右吉
宮武外骨と発禁本
梅原北明と発禁本
佐藤紅霞と発禁本
『相対会報告』……小倉清三郎
藤井 純逍と発禁本
『女礼讃』……宇佐美不喚洞
『寝室宝典』——性生活もの——ほか
『赤い風船あるいは牝狼の夜』…・・犯罪者同盟
『ファニー・ヒル』『グループ』『キャンディ』
そして巻末に、「資料・近代日本発禁小史」が付されている。

ここに取り上げられた本は、3分の1ほどが思想的な発禁本で、残りは性的な、つまりエロの発禁本なのであるが、発禁の理由は露骨な性描写というころよりもむしろ不道徳な描写の方にあった。

例えば、本書冒頭の『都会』には性描写はほとんどない。ただ、姦通(不倫)を仄めかす部分があるだけである。この程度のことで、かつて本は抹殺されたのである。

というのは、発禁は「安寧秩序を妨害し、又は風俗を壊乱する」ものと内務大臣が認めれば、すぐに発動することができた純然たる行政処分であり(新聞紙法第23条[当時]、出版法第19条[当時]等)、裁判も何もなく、内務省の役人のさじ加減一つで乱発されたからだ。終戦までの日本国では、国家権力はその気があれば無制限に言論を制限することができた。

この発禁を避けるため、艶本は次第に暗号めいたものになっていき、遂には「××××が×××××をして」といった伏せ字だらけで何を書いてあるのか想像で補うしかない産物になっていくが、それでも発禁処分が続いた。

しかし、当時の人が姦通などしない石部金吉だらけだったかというと当然そんなことはない。それどころか、男の姦通は罪に問われず、罰せられるのは女性の姦通だけというとんでもない不平等が大手を振っていた。後代の我々から見ると、そうした不平等の元にあったのが、言論の制限であったのかもしれないという気がする。

ところで「エロ本」など規制されてもしょうがない、という考えの人もいるかもしれない。無学な人間を慰めるための、くだらない本だと。確かに、本書に挙げられたエロ本の発禁本は、「猥褻」とされて発禁処分を受けたものであり、別段ためになる本ではない。しかしそうしたものに対してであれ、言論の規制をやむなしとすることは、やがてその規制がエスカレートする端緒となった。

そして、あらゆるものが「フーカイ(風俗の壊乱)」とされて、当たり障りのない大政翼賛的なものしか書けなくなっていく社会を招来することになったのである。著者は「(前略)ズタズタ無惨に削除したり、いとも簡単無造作に発売禁止にした日本の官憲、そしてさらにいうなら治安維持法を制定して(大正十四年)誰彼の区別なくしょっぴいた日本の官憲こそ、ワイセツという言葉をかりに使うならワイセツそのものではなかったのか」と糾弾する。全くその通りだと思う。

私が本書に惹かれたのは、津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』について興味があったからであるが、この他にも宮武外骨は面白く読んだし、梅原北明については知らなかったので大変興味を抱いた。また、鷗外の『ヰタ・セクスアリス』とか荷風の『ふらんす物語』のような、今から見ると何も過激なところがない本が発禁処分を受けていたというのは、現代の日本にも通じる所があるように思い、空恐ろしくなった。

そしてさらに怖ろしいことに、この状態は戦後に改善されたとはいえ続いているということだ。本当に猥褻物なのであればちゃんと裁判にかけて裁判所が没収するべきであるのに、そういう手続きによらず不透明な行政処分により書物が規制を受けるということは戦前と変わっていない。今日も刑法第175条による押収が続いているのである。

しかも、その規制が行政の恣意的なさじ加減にあることも戦前と同じである。例えば、何が猥褻かという規定がはっきりとしておらず、陰毛・性器にモザイクをかければ頒布OKというのも、業界と警察との暗黙の自己規制ラインによるものであり、公式には何ら取り決められていない。国家権力は、ただ目を光らせるだけで業界に自主規制させ、それで「表現」を取り締まっているのである。

こうした不透明な規制を受け続けることで、「自己検閲」を課すことをまず何をおいても自ら恐れるべき、と著者はいう。本書を読むと、我々は決して権力者の顔色を窺って自己検閲してはいけないし、言論の弾圧に屈してはいけない、と言う思いを強くする。それがたとえ下らないエロ小説であっても、権力によって言論が歪められてはいけないのだ。

発禁本から権力と言論の対峙を考えさせる奥深い本。

2017年11月18日土曜日

『会議の心理学』石川 弘義 著

会議を心理学の面から考えた本。

著者の石川弘義は社会心理学者。会議といっても、自らが経験するものとしては大学の教授会みたいなものが中心であるため、その会議観というか、会議とはいったいどういうものかという感覚はちょっと偏り気味である。本書でも「企業における会議では〜〜らしい」といった伝聞で書いており、出版社の謳い文句「実践的会議学入門」の言葉とは違い、営利組織の会議に役立つ内容ではないと思う。

一方で、これは「会議入門」ではなくて、「会議入門」であり、そういう面ではなかなか充実している。

特に、日米での会議の在り方を論じた章や、「会議の心理学」として集団で何かするときの心理についての先行研究を紹介する章は面白い。

最近、NVC(非暴力コミュニケーション)というコミュニケーション方法が注目されているが、これはアメリカにおいて、対立を厭わず自己主張を戦わせることによって結論を出していこうとするコミュニケーションのやり方が普通だからこそ出てきた方法であることがよくわかった(本書においてはNVCは扱われていない)。

また、「会議の心理学」についてはホールの「プロクセミックス」という考え方が紹介されている。これは、人間同士の距離によって社会的関係が変化していくことの理論であるが、これは会議の進め方にも応用できる。簡単に言えば、会議の座席をどう配置するかによって、ある程度会議の雰囲気を作ることができるというわけだ。まあ、そんなことは経験上明らかともいえるが。

このように本書には実際の会議に応用できる点もあるものの、それは話の中心ではなくて、むしろ「会議」」を通して見る心理学の話、と受け取った方がよいようだ。といっても、これは体系的に展開されるもの学問の話ではなくて、よもやま話みたいに親しみやすい本である。

※プロクセミックスについては、『かくれた次元』エドワード・ホール著、日高敏隆・佐藤信行 訳の記事を参照。

『日本の名随筆 別巻74 辞書』柳瀬 尚紀 編

「日本の名随筆」の別巻シリーズから、「辞書」をテーマにしたもの。

昔の人々の考えを知る、というのはつい最近のことでも難しい。「辞書」に対する価値観もその一つで、インターネット(特にWikipedia)登場以後の世界にいると、以前「辞書」がどういう役割を果たし、人々がそれとどう付き合ってきたのか、ということがピンと来なくなってくる。

そういうとき、こういう随筆集を紐解くと、「ああ、そういえば辞書とはこういうものだった」と少し思い出すことができる。インターネットのない時代、手元で何か調べようと思ったら辞典を用意しておくほかなく、それも数種類の辞典を座右に置き、それはさながら「相棒」であり「先生」であったのである。

本書における「辞書」は、ほとんどは国語辞典を指しているが、その他の辞典類について書いた随筆もある。

通読してみると、(編者の好みが当然反映しているとしても)かつては「言海」の存在感が大きかったんだなというのがよくわかる。今の若い人は「言海」など知らないと思うが、明治時代に文部省により我が国初の国語辞典として編纂が企図されながら予算不足でプロジェクトが途中で座礁し、編者の大槻文彦が自費出版して以後増補を重ね、その後の国語辞典の規矩となったような存在である。

辞典の編纂とは、言語の海に櫂なく漕ぎ出すような壮大かつ困難なプロジェクトで、そこに隠された人間ドラマは非常に面白い。『言海』の大槻文彦の場合はもちろん、『大漢和辞典』の諸橋轍二、『広辞苑』の新村出といった人々が数々の困難を乗り越えながらなんとか辞典を完成させる様はドラマに溢れている(本書ではこういう話は中心ではない)。

ところで随筆では、国語辞典への不満といったものも多く表明されている。その一番は、説明がまずいことだ。それは、用例を十分に吟味することなく、先例の辞書を参考にしてしまう悪癖と、わかりやすい説明を行おうとする意志にそもそも欠けているというのが原因のようだ。これは私も感ずるところである。英々辞典と国語辞典を比べてみると、英々辞典の方が説明がスマートなことが多い。その他、収録する語彙の取捨選択においても、用例ではなく先例の影響が大きく、死語やそもそも用例のない語彙が堂々と載っていることなどが問題視されている。

だが、辞書にはそうした問題があるにしても、辞書を引くのはいいことだ、という観念は全ての随筆に共通しているように思われた。今であれば、「若い人はすぐにググる」というような批判があるものだが、「すぐに辞書を引く」のは美徳とはされてもみっともないこととは誰も思っていないようだ。同じ「調べる」という行為に対するこの態度の違いは、何に起因するのだろうか。


【関連書籍】
『知の職人たち・生涯を賭けた一冊(紀田順一郎著作集〈第6巻〉)』紀田順一郎 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/6.html
生涯最大の一冊の誕生のドラマ。諸橋轍二や新村出など、辞書に命をかけた人たちの話がまとめられている(『知の職人たち』)。


2017年11月5日日曜日

『儀礼と権力 天皇の明治維新』ジョン・ブリーン著

明治維新前後の宗教政策を「儀礼」を通じて概観する本。

本書の内容は主に3つである。

第1部では、明治維新前後の政局を宗教政策から読み解く。特に、明治天皇が生ける神話となっていく過程を追い、そこに果たした儀礼の役割が考察される。

第2部では、近代神道の創出過程を辿る。特に、明治初期の宗教政策を牛耳った津和野派の動向と、津和野派の思想的支柱であった大国隆正の思想が詳しく述べられる。

同じく第2部の後半では、それまでの概史から離れて、山王祭(日吉神社)が明治時代にどのように変容したかが語られており、これは一種のケーススタディとなっている。

本書の特色としては2つが挙げられる。

まず第1に、明治維新史の類書ではあまり取り上げられない、文久3年の将軍上洛がかなり詳しく説明されていることである。この上洛と天皇への謁見は、実質的に幕府の権威が禁裏の権威に敗北したことを象徴するエポックメイキングな出来事であった。さらに著者は、その上洛にあたっての儀礼を辿り、儀礼がどのように朝幕の関係性の再構築に寄与したかを分析している。また、五箇条のご誓文についても、条文そのものよりも、五箇条のご誓文を天皇がどのように誓祭したのかという儀礼の面から考察していて、これも著者独自の視点と思った。

第2に、明治政府の初期宗教政策に甚大な影響を与えながら、あまり思想内容まで踏み込んで語られることのない大国隆正について、その著作を多く引用して詳しく語っていることである。特に、大国が開国についてどのような立場を取ったのかということが時期毎に分析されている。本来的には攘夷的な性格が強い国学が、どうして開国を合理化したかということがよくわかる。

著者のジョン・ブリーンはケンブリッジ大学の日本学科で日本史・日本文学を研究。その後大学院では幕末明治の天皇をテーマに研究している。本書はそうした著者の中心的な研究領域の近年(2005〜2010年)の論文をまとめたもので、書き下ろしではないので後半は若干散漫な印象もあるが、まとまりは悪くない。

「儀礼」という地味なテーマながら類書にはない視点で明治日本の宗教政策を見つめ直す良い本。


2017年10月23日月曜日

『罪深き愉しみ』ドナルド・バーセルミ 著、山崎 勉・中村 邦生 訳

現代アメリカ文学界における奇才の一人である、ドナルド・バーセルミの短編集。

本書に収録された短編は、主にパロディ、諷刺、コラージュの手法で作られたものである。はっきりと分かれているわけではないが、第1部がパロディ、第2部が諷刺、第3部がコラージュといった具合で、全24編の小品が並んでいる。

表題の「罪深き愉しみ」とは、そういう文学のお遊びのことであるらしく、「こんなフマジメな文学を書いてすいません」といいながら不敵に嗤うバーセルミが目に浮かぶようである。

鑑賞の上からいうと、第1部と第2部はやや難解である。特に第1部は、ほとんどがパロディ的な作品であるので、いわゆる元ネタを知っていないと楽しめない。第2部の諷刺は、我々日本の読者にも決して縁遠いとはいえない政治や社会風俗が取り扱われているので、これは十分に理解できるとはいえないまでも薬味が効いていて楽しい。

だが私が最も楽しめたのは第3部だ。コラージュ的手法はバーセルミが自家薬籠中にしているものであるだけに、材料となる言葉の選択は冴え渡っていて、こういう文章を切り取ってくることができたら、それだけで文学ができると感嘆させられた。映画や文学といった作品からだけでなく、何気ない日常の言葉や俗っぽい言い回しがたくさん利用されていて、とても卑近なものであるにも関わらず、それがバーセルミの手にかかると確かに文学的な価値を持ったものとして感じられるから面白い。

それが実際にどういったものなのかは、本書を紐解いてもらう以外にはないが、コラージュであるだけに、意味ありげに見えながらその実は単なる言葉遊びといったようなユーモア溢れる短編ばかりで、それはしかつめらしい顔をしながら「鑑賞」する文学ではなく、覗き込む方も面白半分でニヤニヤしながらページをめくるべきものだ。

特に本書の最後に掲載されている「無:予備録」はそれを象徴する作品だ。「無」を題材にしつつ、言葉の断片を徹底的にコラージュしていくことによって自らの文学が何の意味もないことをそれとなく説明しているようにも見える。この作品には笑わされた。

「文学」の新たな地平を切り拓いたバーセルミらしい、気の利いた短編集。

2017年10月18日水曜日

『鹿児島藩の廃仏毀釈』名越 護 著

鹿児島の廃仏毀釈の実態について、郷土資料を中心にまとめた本。

鹿児島藩は苛烈な廃仏毀釈を行い、藩内の全ての寺を廃止し、全ての僧侶を還俗(僧侶でなくなること)させた。本書は、このような徹底的な廃仏毀釈について、各市町村の郷土誌を参照することによって実態をまとめている。著者はこれに加えて、気になった廃寺についてはフィールドワークを行っているが、基本的には研究書ではなくて、一般向けの概要説明の本である。

本書の特色としては、廃仏毀釈の関連本はお寺関係者が書いていることが多いのに、本書の著者は元ジャーナリスト(南日本新聞社)であることで、仏教を擁護しようとか、神道を誹謗しようとかいう意図がなく、できごとを淡々と語っていることである。廃仏毀釈についてこのように淡々と語っている本は珍しい。

内容としても、廃仏に至る背景、”お手本”となった水戸藩での廃仏毀釈の概要、腐敗していた一部の僧侶の話なども含まれており、廃仏毀釈とはなんだったのか多面的に摑める。ただし本書の中心は個別のお寺がどのように廃仏されたのかというケーススタディにあって、実際にどういう政治的プロセスによって何が決まり、どう実行されたのかということは必ずしもはっきりとは書かれていない。

とはいえ、廃仏毀釈については残っている公式資料はほとんどなく、地元の口伝に頼る他ない上、実行した人々がほとんど西南戦争で死んでしまっているのだからしょうがないことだろう。ただ、実質的な責任者である桂久武(家老)の話や、記録を残している市来四郎(島津久光の側近)についてはもうちょっと深く記述してほしかったと思った。

また、ちょっと気になったのは、郷土誌を参照しているにも関わらず、それが巻末の参考文献にちゃんと取り上げられていないことである(『各市町村誌』としか書いていない)。文中には「『○○町郷土誌』によれば」などと書かれているにしても、何度も郷土誌を発行している自治体もあるので、後々に検証しようと思った時にやはりしっかりと文献情報を書いておく必要はあると思う。

やや概略的すぎるきらいはあるものの、鹿児島の廃仏毀釈について総合的にまとめられたわかりやすい本。

2017年10月15日日曜日

『神道指令の超克』久保田 収 著

国家神道を擁護する立場から書かれる、近代の宗教政策についての論文集。

著者の久保田 収は「皇国史観」の歴史家であった平泉 澄の弟子で、戦前の国家神道に対して全くと言っていいほど批判的な視点がなく、現代から見るとバランスを欠いたものになっている。

特に題名の元となっている冒頭の論文「占領と神道指令」はその性格が顕著で、国家神道は日本人元来の宗教だったとして、GHQの神道指令(国家神道を解体せよという指令)を日本文化の否定であったと非難し、GHQの統治が終わってからもその影響は甚大で未だに神道界はその痛手から回復していないと嘆く。

しかしこれは現代の標準的な見解とは真逆である。国家神道は日本人が自然発生的に育んできた「神道」とはほぼ無縁のもので政府が創造したものであり、GHQの神道指令にもかかわらず国家神道的なものは現代にまで生き延び続け、神社本庁などによって未だに政治的な影響力を保持している、というのが標準的な見解であろう。

よって、本論文集の歴史観はちょっと頷けないところが多いが、一方で他書にはない視点でまとめているという部分もあるので、内容は意外と参考になるところも多かった。

収録されている論文は、「占領と神道指令」「神宮教院と神宮奉斎会」「信教自由問題と神宮・神社」「明治維新と復古思想」「出雲大神と神道思想」「薩藩における廃仏毀釈」「薩摩の楠公社」の7編。

このうち最も参考になったのが「薩藩における廃仏毀釈」である。著者はこの論文を書いた頃に鹿児島の第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)で教鞭を執っていた。そのため、他書ではほとんど取り上げられない明治初期の造士館(藩校)の動向がかなり詳しく論じられており、明治初期の鹿児島の神道形成には造士館(の「国学局」)がかなり影響していたことがよくわかった。特に、『敬神説略』や『神習草』の刊行に至る経緯や背景といったものは本書で初めて知った。

歴史観は偏っていると言わざるを得ないが、神道側から見た明治の宗教行政の考察という意味では価値ある本。

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html

国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。


2017年10月10日火曜日

『<出雲>という思想』原 武史 著

近代日本における出雲系と伊勢系の派閥の対立を描く本。

明治政府は、王政復古を旗印にした。遙かな古代に行われていた神権政治を現世(うつしよ)に再現することを一度は企図した。その神権政治の思想は、「復古神道」と呼ばれた。これは、それまで千年来培われてきた自然発生的な神道ではなくて、国家の統治の道具として新たに構想されたものであり、古事記や日本書紀、風土記などに現れる神話を再解釈して作られた神道であった。

その神道を形作った人々は大勢いるが、大きく分ければその流れは5つに整理できる。すなわち、(1)平田篤胤の思想を受け継ぐ人々(平田派)、(2)平田派から派生し、明治政府に大きな影響力を持った旧津和野藩の人々(津和野派)、(3)一時期ではあるが神道行政を主導した旧薩摩藩の人々(薩摩派)、(4)アマテラスの一神教的な運動を繰り広げた伊勢神宮に近い人々(伊勢派)、そして(5)オオクニヌシを信奉する出雲大社に近い人々(出雲派)であった。

この5つの派閥をさらに大きく分ければ、アマテラスや天皇の神聖性を強調する方(2)(4)と、オオクニヌシと彼が主宰する目に見えない世界(幽冥界)を強調する方(1)(5)の2つに分けうる。

例えば平田篤胤(1)は、現世での支配者はアマテラスであるにしても、死後の世界あるいは目に見えない世界での支配者はオオクニヌシであり、むしろオオクニヌシの方が永続的な世界の支配者であると考えた。篤胤は、天皇すら死後にはオオクニヌシの審判を受けるとした。この考えを受け継いだ平田派は、明治初年の段階でかなり多数派を占めていたのであるが、その影響力は限定的であり、割合に早く新政府内での存在感をなくした。

一方で、篤胤の門人でありながら篤胤神学を批判し独自の思想を発展させた大国隆正(2)は、アマテラスこそ世界の支配者だと見なし、アマテラス一神教とも言うべき神道を構想した。この構想は津和野藩の藩主であった亀井茲監(かめい・これみ)や福羽美静(ふくば・よししず)に受け継がれ、神道を国教化するという明治4年くらいまでの神祇行政の基本路線となった。

薩摩派(3)は、こういった神学論争にはあまり参加しなかったので、アマテラスにもオオクニヌシにもさほど思い入れはなかったようである。彼らは造化三神(アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒ)を重視し、津和野派の構想には反対であった。薩摩派は神祇行政の実権を握った明治5年頃に津和野派の人々を政府から追い出し、津和野派の構想を挫折させた。

ところが薩摩派の命脈も長くは続かなかった。薩摩派には思想的な指導者がおらず、自らの依って立つ神学的理論を打ち立てることができなかった。しかも信教自由などを志向する開明派の官僚からの抵抗にもあって薩摩派が主導した国民強化運動はうまくいかなかった。

そこで登場するのが出雲大社の大宮司であった千家尊福(せんげ・たかとみ)(5)である。尊福は代々続く出雲国造(いずもこくそう)の第80代目であった。出雲国造は、出雲では藩主を上回る権威を持ち、生き神とさえ見なされていた。尊福はその影響力を背景に、出雲に深い関わりを持つオオクニヌシの復権を試みた。一度は明治政府から排除された平田派の人たちはこの動きに同調して出雲派を形作った。

そんな中、津和野派と薩摩派がそれぞれ影響力を競う形で共同して伊勢神宮の強化が図られ、次第に伊勢神宮が国家にとって特別な地位の神社として擡頭してきた。特に薩摩派出身の田中頼庸(よりつね)が大宮司としてその運動を主導した。こうしてアマテラスこそが国家の主宰神であるとする思想が強化された。

こうして明治政府内では、祭神論争が巻き起こった。顕事(現世での出来事)を司るアマテラスを祀るべきか、それとも幽事(目に見えない世界での出来事)を司るオオクニヌシを祀るべきか。それは神学論争では決着がつかず、結局天皇の勅裁を仰ぐことになった。その勅裁では、どちらを祀るべきという優劣はつけていなかったが、オオクニヌシについては言及されなかったため結果的にアマテラス派の優位を確定させた。

本書は、こうした明治政府内の派閥間の神学的ダイナミズムを克明に描くもので、派閥の動きなども類書に比べわかりやすく、テーマは出雲の思想であるが、出雲だけでなく明治初期の神道行政の動き全体を追うものとしても非常に参考になる。

なお、全体の4分の1ほどを占める第2部では、「埼玉の謎」と題して埼玉県成立の歴史と県庁所在地がなぜ大宮ではなく浦和なのかということを、なぜ埼玉には氷川神社が多いのかということから考察している。これには実はオオクニヌシが関係しており、千家尊福は埼玉県の知事に就任して氷川神社の復興にも取り組んでいる。第2部は第1部での話を下敷きにしたケーススタディとしても読めるが関連は深くない。

オオクニヌシを信奉する出雲派の明治初期での動向から、神祇行政全体まで概観させる良書。

2017年10月9日月曜日

『島津斉彬公伝』 池田 俊彦 著

島津斉彬の伝記。

本書は、鹿児島出身の西洋史学者である池田俊彦が、伝統的な資料(斉彬と関わりがあった人の残した資料など)に基づいて書いた島津斉彬の伝記である。

明治生まれの著者らしく、文語文で書かれており、慣れていない人には少し読みづらい。またかなり難しい漢字も使われており、平易とはいえない。

記述は、襲封(しゅうほう:藩主の地位を継ぐこと)以前は概ね経年的に書かれ、襲封以後はテーマ毎に斉彬の事績を辿る構成になっている。具体的には、「勤王の事績」「民政、勧業、経済」「将軍継嗣問題」「外交上の諸問題」「薩摩藩士風の改善と教育」「洋式造船ならびに科学的事業」「斉彬の経綸とその臨終」等である。これらは、経年的記述ではないためそれぞれの前後関係がわかりにくいきらいもあるが、斉彬の多彩な側面を概観できる。

ただし、本書は歴史家の視点から斉彬の伝記を編んだというよりも、斉彬の讃仰のために書かれたという面がある。実際、本書は最初「岩崎育英奨学会」から出版され無料で頒布されたものである。そのため、随所に斉彬への賛美・讃仰がみられる。決して無理に斉彬称讃をしているわけではないのだが、 やや過剰な感じは否めない。

とはいっても、時代を遙かに超えた見識を持ち、仁政を敷いて国を富ませ、その上温和な人柄だったというのだから、鹿児島にとってというよりも、全国的に見て稀有な名君であったことは、本書を批判的に読むにしても明らかなことである。実に、鹿児島を明治維新を主導する雄藩に仕立て上げたのは、斉彬の功績であった。

そんな斉彬であったが、唯一、子どもだけには恵まれなかった。六男五女に恵まれるものの、男子は全て夭折。女子も長じたのは3人だけであった。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられ、ほとんど陰らしい陰がないのに、子どものことに関してだけは、夫婦の間に深い悲しみが漂っているのである。本書は公務での業績を辿るものであるので、そういった個人的側面はほとんど描かれていないが、私はそこにも興味を抱いた。

なお、伝記としてはちょっと古びたところ(情報が古いところ)もあり、斉彬伝の決定版とは言えない。しかし本書は600ページ近くもありかなり詳しく総合的な斉彬像が提供されており、斉彬に関する通説を形作ったという意味で存在感の大きな本である。

やや難しいが、情報量が豊富で斉彬伝の嚆矢として価値ある本。


2017年9月17日日曜日

『ある英人医師の幕末維新—W・ウィリスの生涯』ヒュー・コータッツィ著、中須賀哲朗 訳

幕末明治の頃に英国公使館の一員として来日し、医師として活躍したウィリアム・ウィリスについてまとめた本。

著者ヒュー・コータッツィは駐日英国大使だった人物で、本書はその在任中に書かれたものである。ウィリスは本国の親類や友人のアーネスト・サトウに向けてたくさんの手紙をまめに書いており、本書はそうした書簡を元にウィリスの日本での活動を辿っている。

ウィリスというと、私たち鹿児島の人間には馴染みが深い人物で、西郷隆盛がウィリスをとても信頼していたという話もあるし、ウィリスは鹿児島大学医学部の学理上の祖でもあるのに、その知名度にも関わらず、彼の人間的な側面についてはほとんど知られていない。

本書は、ウィリス自筆の手紙で構成されるものであるから、自分をよくみせようという彼のささやかな虚栄心があるとしても、個人的な手紙がほとんどであり、彼の内面を雄弁に物語るものだ。

そういう彼の内面を一言で表すなら、間違いなく「ヒューマニズム」ということだろう。本書には、ウィリスが会津戦争に医師として従軍した記録が数多く収められているが、無償で敵味方関係なく傷病者を治療・看護したその情熱がよく伝わってくる。そして、彼がいつも気にかけていたことは、負傷した捕虜が一切見当たらないことであり、それは敵兵を皆殺ししていることを暗に示していた。彼は、敗者への人道的な扱いを一貫して主張するのである。

そして、日本で直面した外国人へのいわれない敵意にも、彼は極めて紳士的に対応していたように見える。英国人というものは立派なものだ、と思われるように、と彼は述べるが、とにかくどんなに敵意を示されても、寛容で親しみのある姿勢を崩さなかった。一方で、非合理なことに対しては毅然として正論を主張したのも彼であった。

しかし、ウィリスがヒューマニズムに燃えた聖人君子だったかというとそうでもない。そもそも日本への赴任は、一種の人生からの逃走の側面があった。イギリス在住中に、ある看護婦との淫らな関係により私生児を産ませてしまったこと、そういう負の人生から逃れるために遠い日本までやってきたという見方も出来るのである。

事実、日本へ赴任してきた当初のウィリスの手紙は、日本への不満、未開な文化への軽蔑的な見方といったものも散見される。次第にウィリスの声望が高まり、副領事として活躍するようになるとだんだん日本という国にも親しみを覚えていったようである。

そしてウィリスは、日本政府から請われて東京医学校を任されることになる。英国大使館を休職し(本書では「賜暇」と表現)、日本政府のお雇い外国人となって、西洋医学を日本に広めようとした。だが東京ではオランダ医学を学んだ蘭方医が幅をきかせており、蘭方医たちはドイツ医学を輸入したがった。ウィリスは「日本における医学の父の一人」となりたいと孤軍奮闘するが、遂にその願いが叶えられることはなかった。

ウィリスは公使館へ戻ることもできたが、あくまで医師として生きていきたいという希望もあって、戊辰戦争以来親交のあった薩摩藩に招かれることになる。といっても、彼は失意の中で、お金のためにしょうがなく僻地の薩摩に行く、というような心持ちだったようだ。

鹿児島に「都落ち」してからの手紙は、苦渋の毎日を伝えている。外国人への敵意、暑すぎる気候、たった一人の英国人という孤独、そして漢方医からの反発といった逆風の中で、浄光明寺跡に設けられた西洋医院を任され、そこを拠点として鹿児島での医療と医学教育、公衆衛生、食生活の改善などに取り組んだ。やがて彼の働きぶりは高く評価され、その医学校・病院は発展していった。私生活においても、江夏八重との結婚、そして息子アルバートの誕生もあり、孤独は癒えていったようである。八重との結婚は、お雇い外国人にありがちな現地妻としてではなく、生涯の伴侶として考えていたようで、鹿児島に一家の生活のための宏壮な住宅も建築している。

しかしようやく手に入れた幸せな生活も、西南戦争の勃発によって壊されてしまった。彼は八重や息子たち(前妻の子ジェームズも含む)を連れて東京まで避難するが、やむなく家族をおいて彼だけが英国に帰国することになった。戦後にはまた鹿児島に戻るが、そこにはもう彼の居場所はなかったらしい。外国人排斥から彼を守り温かく迎えた大山綱良や、よき友人であった西郷隆盛はいなくなり、ドイツ医学の方が重んじられたという背景もあって、仕事をみつけることができなかったのだ。

こうしてウィリスは息子アルバートだけを英国に連れて帰った。その後おそらくはアーネスト・サトウのはからいによってバンコクの駐在英国総領事館の医師として働いた。ウィリスはタイで8年ほど過ごし、日本でと同じく高い名声を博したが、体調を崩して英国に帰国し、58歳で亡くなった。

ウィリスが日本に滞在したのは、25歳から40歳までという、人生において最も活動的な時期にあたっていた。本書を読むと、ヒューマニズムに溢れた青年が理想と現実との間で悩んだり、人を助けるために危険を顧みず奮闘したり、待遇改善のため地味な事務仕事に勤しんだりといったウィリスの息づかいが感じられるようである。そんな中で、ようやくつくり上げたのが鹿児島での生活だったのだ。

彼が主催した西洋医院は鹿児島医学校兼病院となり、西南戦争での中断ののち、鹿児島県立医学校、鹿児島県立病院を経て現在の鹿児島大学医学部へと継承されている。本書は絶版状態にあるが、少なくとも鹿児島ではもっと読まれるべき本であろうと思う。

青年ウィリスの生き様が感じられる良書。

2017年9月8日金曜日

『薩摩国反乱記』マウンジー著、安岡 昭男 補注

外国人の目から見た西南戦争の記録。

本書は、西南戦争の当時、イギリス公使館書記官として日本に駐在したオーガスタス・H・マウンジーが、次の任地であるギリシアで執筆したもので、原書はロンドンで1879年に公刊された。

西南戦争は明治10年すなわち1877年に起こったから、本書はそれからたった2年後に公刊された同時代史料であり、日本語で書かれた記録も含め、西南戦争についてまとめられた本としては最も古いものの一つである。

明治政府から西南戦争の正式な記録『征西始末』の編纂を依頼されていた史家の重野安繹(しげの・やすつぐ)は、『征西始末』の第1稿を書き上げた時にこの『薩摩反乱記』を入手し、その歴史記述に大いに刺激を受けたという。

本書では、反乱の様子を述べるだけでなく、反乱に至る歴史的・政治的・社会的背景を丁寧に紐解いており、幕末維新期の政治過程を要領よく折り込んでいる。その頃の日本の史書といえば伝統的な編年体とか紀伝体といったような形で記述していたから、出来事の羅列ではなく、その背景から説き起こすという立体的な歴史記述に重野は注目したのである。

しかしながら、伝統的な漢文での史書編纂にこうした新手法を生かすことはできず、実際には『征西始末』の最終稿に本書はあまり影響を与えてはいないらしい。とはいっても重野が本書を非常に高く評価していたことは間違いないとのことである(本書「解題」による)。

個人的に興味を抱いたのは、マウンジーが本書を書いたことそのものについてである。彼はどうして、公的記録でもなんでもない本書をわざわざ執筆し、公刊したのであろうか。イギリス人にとっては後進国の内紛にすぎない西南戦争について、なぜ熱く語ったのだろう。おそらくその答えは、マウンジーは西郷隆盛に心酔していたからだろうと思う。序文において彼はこう述べている。
「西郷は、その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである。この反乱の物語は、私としても、記録に止めるに値すると思われるのである。」
実際、本書は、かなり西郷に同情的に書かれている。しかし概ね筆は公平であって、明治政府の批判についても感情的な部分はない。こうしたところは公使館の書記官らしい堅実さである。また西郷に同情的であるとは言っても、反乱の意図は「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」として、決して進歩的ではなかったことを指摘しているし、薩摩人全体に対しては結構厳しいことが書いてある(例「すべて倨傲無知は、将校、賤卒に至るまで、薩人の心理に侵入せしものにして…」)。

本書の翻訳は明治当時のものであるため文語文であり、慣れない人には読みやすいものではないが、内容は非常によくまとまっており決して理解に苦労するようなものではない。重野安繹が激賞したように歴史記述として優れ、西南戦争史の嚆矢として大きな価値があるものと思う。


【関連書籍の読書メモ】
『重野安繹と久米邦武—「正史」を夢みた歴史家』松沢 裕作 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_28.html
近代日本における最初の歴史家ともいうべき重野安繹と久米邦武の小伝。
近代日本にとって「歴史観」が問題となった最初のケースについて生き生きと知れる良書。


2017年9月7日木曜日

『コシヒカリ物語―日本一うまい米の誕生』酒井 義昭 著

コシヒカリ誕生の謎を追う本。

コシヒカリは、太平洋戦争末期から終戦直後にかけての食糧難の時代に開発された。コシヒカリというと美味しいお米の代名詞となるくらいであるが、収量は少なく病気には弱く、栽培はかなり難しい。食糧増産が叫ばれた時代に、このような美味しいだけが取り柄の品種が生まれたのは一体どうしてか。

本書は、この疑問を出発点として、コシヒカリが日本の水稲の作付面積第1位になるまでに普及したその歴史を紐解いていくものである。

その答えを一言でまとめてしまうと「偶然であった」としかいいようがないようだ。

コシヒカリの元となった「農林22号×農林1号」という交配を行ったのは新潟県農業試験場の高橋浩之。終戦間際のことであり、人員も設備もない中での非常に苦労した交配であったが、高橋はこの交配種の行く末を確認することなく転任している。

この交配種を受け継いだのは長岡農事改良実験所の仮谷 桂と池 隆肆(たかし)。しかし、この交配種はそもそも農林1号の耐病性を強化するという育種目標で作られたものだったのにも関わらず、耐病性がよくなかったため有望視されず、当時新設された福井農事改良実験所に送られることになる。新設のために実験材料が不足していたからだった。

福井でこの交配種を担当したのが、水稲の育種は全く素人だった石黒慶一郎。福井農事改良実験所は貧弱な体制で、水稲育種に詳しいのは所長一人という状態だった。当然に石黒は水稲育種に行き詰まり、気晴らしに農民小説などを書いていたほどだった。だがこの交配種の雑種第5世代から「ホウネンワセ」と呼ばれることになる割合優秀な系統が出てきた。 一方、後にコシヒカリとなる系統は、ここでも有望視はされていなかったが、なぜか捨てられもしなかった。

なぜ有望でない系統を捨てなかったのか、ということについては石黒自身も分からないらしい。著者の推理では、ホウネンワセを生みだして精神的余裕が出ていた時期だったので、少しくらい欠点があっても捨てないでおこうという心理が働いたのでは、ということである。ちなみにこの時まで、食味の試験は一切されていない。熟色がよいということは評価されていたが、味が美味しいから残されたというわけではないのである。コシヒカリは、美味しいということを除けばさしたる長所はない品種なのであるが、そんな品種が食味検査によらず生き残っていったということ自体が不思議なのである。

後にコシヒカリとなるこの系統は、「越南17号」と名付けられた。だが仮に系統名がついたとしても、これを自治体が奨励品種として採用しなければ品種として登録もされない。試験のために各地に配布された「越南17号」だったが、ほとんどの試験地では落第点で、これを僅かに有望と認めたのは新潟と千葉のみであった。ここで「越南17号」を拾ったのが、新潟県農業試験場の杉谷文之だ。杉谷は総スカンで反対をくらうなか、「越南17号」独断によって新潟の奨励品種にしたのである。

杉谷はどうやら「越南17号」の食味の良さは割合買っていたらしい。しかし杉谷がこれを奨励品種に採用したのは、この系統の優秀さを認めたからというよりも、他の試験場へのライバル意識や功名心、本命の品種までのつなぎとしての活用などいろいろな思惑があってのことだった。ここは非常に人間くさいところであり、おそらく、杉谷のようなワンマン場長が非合理的な判断によって採用するのでなければ、「越南17号」は奨励品種に採用されていなかった。何しろ、「越南17号」=コシヒカリの真価には、誰もその時気づいていなかったのだ。その時は、病気(イモチ病)に弱く、倒伏しやすく、収量も上がらないという欠点ばかりの品種だと思われていた。

こうして様々な偶然によって世に出たコシヒカリだったが、このような欠陥だらけの品種は当然あまり採用されなかった。だが試験場がコシヒカリの欠陥を克服するような栽培法を確立しようと努力したこともあって、新潟県魚沼地方がこの品種の栽培に取り組み始める。実は、魚沼地方の人も、コシヒカリの食味の良さに惹かれたわけではない。コシヒカリの耐冷性に注目し、山間部の低い気温でも生育がよく収量が期待できるという点に惹かれたのであった。

この時代は食管法があったから、米は国が全量定額買取を行っていた。たとえどんなに美味しい米でも、不味い米でも価格は同じであった。だから、美味しい米を作ろうとするインセンティブはほとんどないのである。収量が大事な時代だった。そんな時代に、味だけが取り柄のコシヒカリは様々な偶然に支えられて誕生したのである。

時代が移り食管法が緩和され自由流通の米が出るようになると、コシヒカリの人気は急上昇した。 食味が極上に優れているのだから当然だった。こうなると、栽培が難しいという欠点は、様々な人の努力により克服されていった。コシヒカリが世に出たのは偶然だったが、それが普及し、最大の栽培面積を誇るようになったのは多くの努力の成果であり、ある意味では必然であった。

著者は農業関係に詳しいジャーナリスト。本書の前半はコシヒカリ誕生の謎に迫っていくというミステリー風の筆致であり、水稲の育種という地味な素材を使いながら引き込まれる展開である。後半はコシヒカリが普及し、日本一の座を確立するまでの話。後半は統計的なものが多く人間ドラマには欠けるが、コシヒカリの歴史を多面的に扱っており勉強になった。

コシヒカリの誕生を通して水稲の近代史を垣間見る良書。

2017年8月16日水曜日

『あのころはフリードリヒがいた』ハンス・ペーターリヒター著、上田 真而子 訳

ユダヤ人迫害をテーマにした児童文学。

これは大人にとって、読み進めるのが痛々しい本である。というのは、主人公の幼なじみ、ユダヤ人のフリードリヒ少年を待ち受ける過酷な運命を知っているからだ。のっけからその悲劇を予感して、ページを捲る手を止めたくなるような本だ。

主人公「ぼく」とフリードリヒは同じアパートの階上階下に住む関係で、いつも仲良く遊んでいた。フリードリヒのお父さんは公務員、「ぼく」のお父さんは失業者だったが、そんなことは幼い二人には関係なかった。

ドイツ政府がユダヤ人に不利な政策を矢継ぎ早に打ち出していく中でも、「ぼく」とフリードリヒは親友同士であり、決して、フリードリヒがユダヤ人だからといってからかったり、いじめたりすることはなかった。「ぼく」のお父さんもお母さんも政府のユダヤ人迫害には批判的で、フリードリヒ一家との友好的な付き合いを続けていた。

しかし社会はどんどん動いていった。フリードリヒのお父さんは仕事を辞めさせられる。ユダヤ人が公職に就くことが禁じられたからだ。次の仕事は見つかるが、徐々にフリードリヒの一家は貧しくなる。一方で、「ぼく」のお父さんは「党」に入党する。そのことで就職でき、また党員だからということで昇進も早くなる。

また、「少年団」が組織され、反ユダヤ的な活動が子どもの間でも組織的に行われるようにもなった。「ぼく」は少年団に入り(入らされ)、フリードリヒも少年団に憧れるがその活動内容を知って絶望する。「ぼく」は反ユダヤ政策に対して共感もしていないが、強く反発しているわけでもない。ただ、フリードリヒとの友情は変わらないというだけで。

やがてユダヤ人は、ありとあらゆる権利が制限されていく。そんな中、「ポグロム」が行われるようになる。ポグロムとは、ユダヤ人に対して行われる暴動・破壊・虐殺行為のことである。ユダヤ人の住居が突然襲われ、略奪や破壊が行われた。もちろん警察はこれを黙認していた。そしてフリードリヒの家も(つまり「ぼく」のアパートの階上だ)ポグロムによって破壊され、フリードリヒのお母さんはこの時の怪我によって死んでしまう。

一方、「ぼく」は、ユダヤ人排斥の気持ちはなかったにも関わらず、 ポグロムで浮かれたように破壊行為をする人波に混じり、(フリードリヒの家に対してではないが)なんとなく破壊に荷担してしまう。ユダヤ人学校の机や勉強道具を面白半分で壊してまわったのだ。ここは物語中の白眉だと思う。ポグロムが行われるには、ユダヤ人への強い差別意識など必要なかったのだ。ただ、暴力行為が黙認されさえすれば、何でもいいから破壊したいという衝動が利用されていた。

こうして、もはやユダヤ人は隠れるようにして生きるしか術がなかった。フリードリヒの家は夜でも明かりのつかない家になった。そして、フリードリヒだけは外出中だったので見逃されたが、一家は強制的に連行された。しかし一人残ったフリードリヒの命運も尽きていた。爆撃が迫り周辺の住民は防空待避所へと避難したのに、ユダヤ人のフリードリヒは入れてもらえなかったからだ。

爆弾がそそがれる中、フリードリヒは防空待避所へ入れてもらえるよう嘆願する。ユダヤ人であっても、こんな時には入れてあげたらいい、と多くの人が言う中、責任者のレッシュはあくまでも拒否してフリードリヒを外に追い出す。レッシュは、「ぼく」やフリードリヒの住むアパートの大家で、前々からフリードリヒ一家を追い出したかったのだ。爆撃によってフリードリヒは命を落とす。翌朝、その死体を足蹴にしてレッシュが言う。「こういう死に方ができたのは、こいつの幸せさ」

「ぼく」はいつでもフリードリヒの味方だし、その他の登場人物にもユダヤ人に親切な人は多い。しかしそれでも、ドイツはユダヤ人排斥の動きを止めることはできなかった。たとえ自分のできる範囲でユダヤ人を守りたいと思っても、普通の人には社会の巨大な力に抗うことは無理なのだ。親切でやさしく、正義感に溢れた人が斥けられ、レッシュのような小心翼々とした卑怯な人間が活躍する世界、それが戦争だった。社会はひっくり返ってしまったのだ。ひっくり返った世界では、ごく当たり前の、人と人とのいたわりなど、何の力も持たなくなるのだった。

私たちはもう二度と、世界をひっくり返らせてはならないのだ。

2017年8月15日火曜日

『天皇陵の研究』茂木 雅博 著

天皇陵についての研究を一般向けに紹介した本。

本書は、著者が1992年に出版した『天皇陵の研究』(学術書)を、一般向けに仕立て直したものである。

本書では、まず幕末の「帝陵発掘事件」が取り上げられる。天皇陵とされた古墳を盗掘したという罪で、数人が死刑に処された事件である。それまでは、古墳の発掘というのは別に禁止されておらず、宝探し的に掘られることが多かったそうだ。にもかかわらず、幕末になって急に古墳の盗掘が重い罪とされ、何人もが市中引き回しの上磔という極刑に処されたのである。これは、万世一系の天皇制を確立するにあたり、古墳を天皇陵と治定し聖域化したことの象徴だという。

さらに、神武天皇陵の創出についてもやや詳しく顛末が述べられる。おそらくは実在していなかったと思われる神武天皇の山陵を、政府がどうやって「創り出したか」ということだ。明治政府は「神武の創業に復る」を旗印にしたが、国家の創設者としての神武天皇は近代天皇制の中心であった。そのためのモニュメントとして神武天皇陵を急ごしらえで治定するのである。それまでも神武天皇陵の研究(探索)がなかったわけではないが、神武天皇陵は学術的な根拠を差し置いて政治的な都合で治定された側面が強い。

また、さほど詳しくは書かれていないが、神武天皇陵に関して興味を惹いたのは、明治初期に奈良県を治めた(県令、追って知事だった)税所篤(さいしょ・あつし)のことである。税所は薩摩藩出身。立場を利用して美術品の収集やその販売を秘密裏に行っていたことが疑われており、ボストン美術館にある天皇陵の遺物は税所が不法に(偶然を装って)行った山陵の発掘によるものだと考えられているが、ここで取り上げられるのはその話ではない。

税所は、明治13年に神武天皇陵が位置する畝傍山を公有化(買収)し、天皇陵の聖域化に一役かっているし、おそらくは神武祭の実施などにも関わっているだろう。また、神武天皇即位宮にあたる「橿原神宮」の創建が一般の行政では考えられないほど急速に進んだことを鑑みると、主導していたものと思われる。要するに、税所は奈良盆地の聖域化を考えていたようなフシがある。橿原神宮はその後国家により特別待遇を受けて拡大の一途を辿る。このあたりで税所がどういう役割を果たしていたのか非常に気になるところである。

このほか、本書では民衆と古墳の関わりの問題、古墳の考古学研究の概観、そして天皇陵の公開をめぐる議論が紹介されている。「公開をめぐる議論」のところでは、公開を求める学界に宮内庁が国会で答弁した議事録が引用されているがこれはなかなか面白い。「別に秘匿しているわけではない。求めがあれば公開する」と言いながら、のらりくらりとしていつまでたっても天皇陵の公開を渋る宮内庁の雰囲気がよく伝わってきた。

本書は、学術書を下敷きに書かれているため史料の引用が多く、細かい特定の話題について深く述べる形で書かれており、必ずしも天皇陵にまつわる問題の全体像を把握できる本ではない。天皇陵研究の紹介の部分でも、各時代での天皇陵の治定が表となってたくさん紹介されていたが、こういうのは一般の読者は熱心に比較対照するものではない。

というように、一般向けに書くならもう少しかみ砕いて説明できるのではと思う部分もあるが、学術書の雰囲気を残したまま割と気軽に読める天皇陵の研究本。


2017年8月11日金曜日

『天皇陵の近代史』外池 昇 著

「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。

天皇陵とは、いうなれば天皇の墓とされた古墳のことである。すなわち、天皇陵というものを考える時、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定したプロセスがいかなるものであったかが問題になる。

このプロセスに大きな影響を与えたのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれるものだった。これは、宇都宮藩(実質的には筆頭家老だった戸田忠至(とだ・ただゆき)が企画)が歴代天皇陵の修復を幕府に対して建白したもので、建白の段階で宇都宮藩は山陵の現状を見たこともなく、いわば机上の空論として修陵を企図したのであった。

それどころか、修陵をしようにも、まず最も重要視された「神武天皇陵」がどの古墳にあたるのかも分かっていなかった。であるから、「文久の修陵」においては、まず天皇陵を治定することから始まったのである。そして、このときの修陵の方針が、拝所の設置や立ち入り禁止措置、周濠の水の利用許可など、後の宮内庁の陵墓管理の原型を形作ることとなった。

それでは、多く古墳が位置する畿内から遠く離れた宇都宮藩が、どうして修陵の建白を行ったのだろうか? 建白では、要するに「国威発揚になるから」といったことが述べられており、修陵事業は幕末の勤王思想の高まりに呼応したものであるらしい。また当時の状況を考えると、公武一体の象徴として天皇陵を利用しようとしたのだろうし、神武天皇の修陵直後には山陵に対して攘夷の祈願祭が行われていることを見ると、天皇陵が祭祀の中心として構想されたのかも知れない。しかし、実際のところなぜ宇都宮藩が建白を行ったのかは謎と言わざるを得ない。

「文久の修陵」では、歴代天皇の陵の比定を大急ぎでやったことから、学術的にあやしい比定がたくさん行われることになった。幕末から明治にかけて、天皇陵の比定は意外と二転三転しているところも多く、一度決まると凍結されたというわけではないが、基本的にはそうした間違った比定はその後も修正されなかった。というか、古墳の被葬者が誰であったかという問題は、古墳自体に墓碑銘などが残されていない以上、決定できるようなたぐいのものではない。にも関わらず、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定されてしまうことは、その決定の当否に関わらずゆゆしき問題である。

本書ではこのほか、古墳が周辺の村落にどのように利用されていたか、また山陵にまつわる祟り(穢れ)の問題といったことが取り上げられている。天皇陵は、修陵の前は単なる古墳(というより山)であったのだから、そこに村落があったり、年貢地が設定されていたりした。それを修陵事業によって立ち入り禁止にすることは、村落の生産の場を奪うことにもなったのである(しかし、それには意外と軋轢はなかった)。

その他、 陵墓へはたびたび盗掘があったこと、地方官僚(県令)が陵墓に対して抱いていた強い関心といったものにも触れられる。税所篤(さいしょ・あつし)と楫取素彦(かとり・もとひこ)がその例として挙げられているが、これについてはもう少し多くの例と共に詳しく知りたいと思ったところである。宇都宮藩の建白もそうだが、地方政府にとって天皇陵は一体どのような意味をもつ場所であったのか、ということに強い興味を抱いた。

本書では、陵墓そのものの歴史ももちろん、「陵墓がどのように扱われてきたのか」という視点でも歴史が語られ、私にはむしろそちらの方が天皇陵にまつわる問題を考える上で重要なアプローチと思われた。天皇陵とは、日本人にとって何だったのだろうか? なぜ「文久の修陵」は行われたのだろうか? 大急ぎで「神武天皇陵」を創り出したのはなぜだったのだろう?

天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。

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2017年8月9日水曜日

『生活の世界歴史(9) 北米大陸に生きる』猿谷 要 著

アメリカ的価値観の成立と変容を、黒人への差別など暗部の側面を取り上げて説明する本。

アメリカ的生活文化を作ったのは、WASP(白人-アングロサクソン-プロテスタント)の人たちだ。ヨーロッパから来た移民たちは、広大なフロンティアを前にして何でも手作りしていった。生活道具だけでなくデモクラシーまでだ。この経験は、アメリカ人の特徴的な気質を形作った。すなわち、「粗野で荒々しいが、独創的であり、自由と平等を信じ、自信にあふれた楽天的な性格」である。また教会がコミュニティの中心をになっていたことから、かなり信心深い社会が出来上がった。

しかしその裏では、黒人へのおぞましい搾取があった。白人は、黒人奴隷に対しては生殺与奪の権を持ち、些細な問題が起こるや凄惨なリンチが繰り広げられた。リンチの観覧のためチケットが販売され、特別列車が運行されるほどであった。リンチによってむごたらしく死ぬ黒人を、白人は喜んで見ていた。こと切れた黒人の心臓が取り出され、切り分けられて土産物として販売されるほどだったという。

差別、という言葉では表すことができないほどの、敵愾心と軽蔑があった。奴隷という経験は、もちろん黒人たちにぬぐい去ることが出来ない深い傷を残したが、一方で白人の方にも道徳的な頽廃をもたらした。取るに足らないミスを咎め、罵声を浴びせながら奴隷を鞭で打ち続ける親を子どもたちは見ていた。切り裂かれた傷からは血が吹き出、奴隷の子どもが母親を許してくれるよう泣いて縋りついても、農園主は一層ひどく鞭を振るった。そういう悪魔のような所業を日常的に見ながら、真っ直ぐに育つ人間はいない。

このような社会で育った人間には、容易には消せない差別心と、統御できないほどの攻撃性が刻み込まれていたに違いない。

一方で、奴隷は重要な労働力だった。特にアメリカ南部の州では奴隷に農園労働をさせていたから、安価に働かせられる黒人奴隷は必需品だった。それほど奴隷労働を必要としなかったらしい北部では、相対的には奴隷は貧困であったらしいが、徐々に黒人の人権が認められていた。南部と北部の対立は、やがて南北戦争を引き起こす。奴隷制度があったのはアメリカだけではないが、「国内の奴隷所有勢力が奴隷を解放しようとする勢力と国論を二分して対立し、足かけ五年、両方あわせて六〇万人の人命を犠牲にするような大戦争に突入した国は、世界のなかでただアメリカ合衆国あるのみである」とのことだ。

また、アメリカほど拝金主義と暴力がのさばった国も珍しい。拝金主義はともかくとして、本書ではアメリカの暴力的体質が様々な例を引いて説明される。暗殺された大統領の多さ、マフィアの暗躍といったものはよく知られているし、銃犯罪の多さも改めて言うまでもないだろう。だが極めてアメリカ的だと思ったのは、不法な、あるいは卑怯な暴力を使っても勝利した方を称讃しがちな所である。アメリカの領土拡張には数々のウソと暴力があるが、それらが批判されることはなく、平然と欺瞞がまかり通っている。

そうしたウソと暴力の向かった最初の先がインディアン(と本書では表記)である。インディアンと入植者の関係は最初は友好的で、むしろインディアンの助けがなくては入植がおぼつかなかったくらいであるが、次第に移民の方が多数派になり、インディアンが邪魔になってくると、インディアンと平和的に結んだ多数の条約を平然と無視して虐殺を行い、どんどん不毛地帯へと追いやっていった。

だが、こうした建国からの数々の非道は、やがて白人自身にも認識されるようになってくる。黒人の権利を守るため、白人も危険を顧みず活動をするようになった。こういう所が、日本人にはないアメリカ的な行動なのかもしれない。1960年代には黒人革命が起き、黒人の人権は認められた。インディアンに対しても、その再評価が進んでいる。かつて絶対的であったWASPの価値観は、新しい世代から挑戦を受け、反省を迫られている。

こうしたアメリカの動向を著者は3つの仮説としてまとめている。第1に、既存のアメリカ的価値観は第二次大戦後に完成し、それは建国以来進んできた道の当然の結果だったということ。第2に、そのアメリカ的価値観は1950年代を頂点として早くも凋落しつつあること。第3に、その価値観の崩壊とあわせて、混沌の中から既に新しい価値観が生まれようとしているということ。

この仮説は、本書では特に検証されていない。だが、こうした仮説を下敷きにして、本書では差別、暴力、虐殺、貧困といった、通常のアメリカ史ではあまり取り上げられない暗部を軸にアメリカ的価値観、アメリカ的生活文化を説明しており、非常な迫力がある。

裏面から見るアメリカ論の良書。

※原題は『新大陸に生きる』だが、文庫化の際に『北米大陸に生きる』に改題された。

2017年8月8日火曜日

『夜明け前』島崎 藤村 著

幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。

本書は文庫本で全4冊の長大な作品である。そのほとんど全てが、木曾街道の馬籠という宿場の、青山半蔵という人物の一生を辿るという内容。時々、時代背景を理解するための説明も展開されるが、基本的には半蔵の目で見る幕末明治、という趣だ。

半蔵は、馬籠の本陣、庄屋、問屋(といや)の三役を兼ねる旧家に生まれた。本陣とは宿場の中心で公的な宿泊場、庄屋は百姓のとりまとめ役、問屋は物流の責任者である。この3つを兼ねる青山家は、武士でこそないながら、苗字帯刀を許された名家だった。

馬籠は山深い宿場であるが、江戸と京都のちょうど中間に位置する。街道は人とものの移動を担うものであるから、その動きは世相をそのままに反映し、馬籠に居ながらにして幕末の激動は伝わってくる。 こうして、馬籠の青山半蔵の目を通じて、読者は幕末の動乱を窺い知るようになる。

半蔵は、宿場の責任者の家に生まれたが、生来学問を好み、家業に勤しむよりは学問の道に進みたいと願う人間だった。彼は国学を志し、これこそ新しい時代に必要となる思想だとして平田篤胤(没後)の一門へと入門する。しかし、名家の跡取りとして生まれた責任も強く感じている半蔵は、他の国学を奉ずる仲間のように、家業を打ち捨てて国事に奔走するようなことはできない。かといって、日々の暮らしを淡々とこなすことだけで満足できるタイプでもない。彼は今にも家を飛び出してしまいそうなはやる気持ちを抑えながら、宿場の仕事に忙殺される日々の中で王政復古を迎える。ここまでが第1部。

第1部では、半蔵は結局のところ何もしない。というかできない。彼の人生に何も起こらないわけではないが、大きな事件があるわけでもなく、足早に動いていく時代を横目で見ていることしかできない彼である。そういう、ある種退屈な筋書きでありながら、小説の筆は冴え渡っており、特に何も起こらないにも関わらず読ませる作品である。

第2部に入ると、半蔵の人生は一転して事件の連続となる。国学を奉ずるものとして半蔵が希求し続けていた王政復古は、復古というよりも旧いものの破壊としてまず半蔵の前に現れる。これまで世襲によっていたものの廃止、旧社会の仕組みの徹底的な否定の運動だった。つまり、既得権の破壊だ。国事へ奔走したい気持ちを抑えながら必死で勤めてきた本陣・庄屋・問屋は、こうしてあっさりと廃止されてしまう。それでも、半蔵は不満を抱かない。何しろ、幕府が大政を奉還し、藩主も藩を返上したくらいである。それも天皇親政の世の中にするため、復古の道を進むためである。半蔵はむしろ積極的に自らの権限を手放していく。

しかしそれは、自らが没落していくことも意味していた。半蔵は山林の使用権についての悪政を糺す活動をしていたところ、上役から目をつけられ、本陣だった関係から任ぜられていた戸長の役職も罷免される。家業を失った青山家は、どんどん没落の足を速めていく。そんな折、長女粂(くめ)の縁談がまとまり、いざ結婚という時、粂が自殺を図る。粂は、半蔵の血を強く受け継いで学問もあり、あっさりと自分の運命に身を任せるような人間ではなかった。そういう粂の気持ちをそれまで受け止めていなかった半蔵は、深く反省して斎(いつき)の道を志すようになる。

こうして半蔵は、神社への就職を斡旋してもらおうと国学者の人脈を頼って東京へ出てゆく。だが一時的に教部省に身を置いた彼が見たものは、国学の挫折であった。かつて「御一新」の精神的支柱であったはずの国学は頑迷固陋なものとみなされ、一時は政府に重んじられた国学者たちがたいした仕事もできないまま閑職へ追いやられていた。半蔵が新しい時代を開くものと頼んだ国学は、もはや無用なものとなりつつあった。目指したはずの復古よりも、新しい時代は開国と文明開化に浮かれ、国学よりも洋学が幅をきかせるようになっていた。

そんな折りに天皇の巡幸が行われた。半蔵は群衆の中、発作的に持っていた扇子を天皇の一行へと投げ入れる。社会はこれでいいのか、という意味を仄めかす歌が扇子に書かれていた。この扇子こそが、半蔵が半生をかけた国学思想の凝縮だった。この廉で半蔵は逮捕され取り調べを受ける。結果的にはさほどの咎めもなく、その後半蔵は予定通り神官へと転職するが、この事件を境に半蔵は次第に狂気へと進んでいく。

4年間の神社への奉職を終えると、半蔵は若くして家督を長男に譲った。というより、家の者から早く隠居するよう強いられた。半蔵は公共の仕事のみに奔走し、家業を顧みなかったために家の没落を早めたと見なされていた。実際、彼に経営の才はなかった。

半蔵は新しい時代に裏切られ続けた。国学は無力で、家は没落し、家族は傷つき、望んでいた社会は彼を無用の存在にした。そして遂に、青山半蔵は発狂し、座敷牢に幽閉される。半蔵は、社会はこれでいいのか、という問いを暗闇に対して突きつけながら、見えない怪物と戦う人間となった。そして、座敷牢の中で彼は絶命し、物語は終わる。

私が本書を手に取ったのは、当時の社会の中で国学がどのように見られていたのか、という興味からである。国学の興隆と挫折、それは知っていたつもりであったし、本書に描かれる国学の流転の様子は、私にとって未知なものではない。しかし藤村の歴史に対する骨太な思索は、そういう表面的な理解を塗り替えるほどの力がある。国学は、何かに対決して敗北したわけではなかった。洋学はおろか、漢学とも思想的対決をしなかった。むしろしてもらえなかった。政治的に都合のよい時だけつまみ食いされ、「旬」が過ぎてからはまともに受け取ってもらえすらしなかった。

青山半蔵という、純直な人間は、もし国学が洋学に敗北したのであれば、潔く兜を脱いだであろう。しかしそうではなかった。国学は、独り相撲をとらされていた。半蔵の人生と同じように。

そもそも、国学者たちは洋学を敵視していたわけでもなかったそうだ。外国のものを無闇に排斥しようとすることはむしろ日本らしさに反すると考えた。進んでそうしたわけではないが、半蔵自身、息子が洋学を勉強することを許した。洋学は半蔵の敵ではなかった。敵は、建国の理想を忘れた社会だった。

その社会は、かつては精神的支柱と頼んだはずの国学を、もはや真正面から批判することすらしなかった。それは黙殺ですらない。なんとなく、盛りが過ぎるのに任せたのである。国学は、いつのまにか時代遅れになっていた。そして、半蔵が暗闇に対して突きつけた問いも、もはや誰からもまともに受け取られることはなかった。

おそらく藤村がこの長大な作品を通して言いたかったことは、明治維新を問い直す、歴史を見つめ直す、ということを避けている限り、見えない怪物をやっつけることはできない、ということなのではないだろうか。本書が書かれたのは昭和の初期、国学から鬼子のごとく生まれた「皇学」が、人々を覆い尽くそうとし始めた時期だ。半蔵が座敷牢で戦った見えない怪物が、それだったのかもしれない。

青山半蔵は、藤村の父がモデルである。モデルというより、父そのものであるといってもよいらしい。本書は、藤村が父の謎多き人生を徹底的に調べ上げ、歴史を再構成することによってできた作品である。そこには大上段の問題提起は一切書かれないにも関わらず、結果的に明治維新を反省させる大作となっている。

そこに描かれた明治維新は、英傑たちが活躍する凡百の「維新」とは全く異なっている。もうすぐ明治維新から150年。我々はそろそろ、青山半蔵が残した問いに、向かい合ってもいい頃である。

2017年7月18日火曜日

『陵墓と文化財の近代(日本史リブレット)』高木 博志 著

文化財としてあやふやな位置づけのまま、保存と研究、公開と秘匿の間を揺らめいている「陵墓」が抱える課題をまとめた本。

陵墓とは、歴代の皇室関係の墓所のことであり、本書においてはその中でも古墳(陵=みささぎ)の話題が中心的に扱われる。

陵墓は、江戸時代から既に治定(ちてい=どの古墳がどの天皇の陵であるかを決定すること)がなされてきたが、幕末明治になってそのスピードが加速し、歴代天皇の陵がどんどん治定されていった。しかし、当時の学知(19世紀の学知)は、現代から見ると厳密な考証に欠け、明らかに間違った治定が行われている場合がかなりある。

具体的には、文献(『古事記』『日本書紀』『延喜式』など)の記載や現地での「口碑流伝(こうひるでん)」を無批判に受け取って治定が行われていたのである。特に記紀を神話としてではなく歴史としてそのまま信じることは、戦前には「国史」の常識であった。

ところが、そうしたウブな方法によって歴代天皇の陵が治定され、宗教的な場所として研究が凍結・秘匿されてしまうことは、学術的な誤りを修正していく機会を失うことを意味していた。

また、既に元禄時代から陵墓の補修事業も行われており、「万世一系」を視覚化するものとして、墓所が改変されている。例えば、公武合体運動の中で行われた山稜補修の事業では、歴代天皇陵109箇所が、1865年(慶応元年)までに補修され、白砂敷きの方形拝所、鳥居と燈籠など、聖域化し拝礼する場所へ墳丘が変化した。

こうしたことは、歴史的遺物を文化財として保護する、または学術的な調査をおこなって真実を明らかにする、という現代の歴史学・考古学の方法論とはほど遠い。しかし、ひとたび宮内庁の管理となってしまうとその研究は極めて限定されることになった。また、陵を公共の文化財としてではなく、あくまで皇室の私的財産(皇室用財産)の聖域であるとする整理では、文化財保護法による保護の手も届かず、「19世紀の陵墓体系」は悪い意味で保存されてしまった。

要するに、現代の学知から見ると、宮内庁により決定され、管理されている陵墓には学問的にも、保存方法的にも問題があるのに、その問題を棚上げして視て見ぬ振りがされているわけである。本書は、そうした問題がどうして起こり、現代の学知との乖離がどうなっているのか、ということを論じるものである。

書名には「陵墓と文化財の」とあり、「陵墓の問題のみならず、広く文化財をめぐる歴史認識としてとらえたい」とのことだが、実際には記載のほとんどは陵墓に尽きている。この意図であれば、もう少し文化財保護の議論も丁寧に追ってもよかったかもしれない。

また、どうして「19世紀の学知」が暴走したのか、ということについてはあまり検証されておらず、「今から見ると問題が多いが、当時としては大まじめだった」というようなことが書かれている。確かに、江戸幕府や明治政府には陵墓体系を「捏造」しようという意図はなかったのかもしれない。しかし、なぜ陵墓が「万世一系」の理念を体現するアイコンとなったのか、という点についてはこの問題の本質と思われるので、もっと丁寧に書いてもらいたかった。

とはいっても、本書はそうした「国体」の問題よりも、文化財保護の視点で陵墓が扱われており、こういう指摘はちょっと当を得ていないのかも知れない。


2017年7月17日月曜日

『エピクロスとストア』堀田 彰 著

エピクロスとストアの生涯と思想を概説する本。

本書を手に取ったのは、エピクロスの生涯に興味を持ったからで、ストアについてはあまり熱心に読んでいない。本書はちょうど半分ずつエピクロスとストアについて書かれているが(内容はあまり関連していない)、以下エピクロスの項のみについて述べる。

ギリシアの多くの哲学者とエピクロスの違いは、エピクロスが高貴な生まれではなかったということだ。「エピクロスは小島生まれの市民で、たえず母国の保護を求め、そのための貢租を支払い、そのうえしばしば略奪の浮目にも会う人々の中のひとり」である。こういう境遇のエピクロスは、「ポリスを前提として立てられた倫理学に背を向ける」ようになった。

そしてエピクロスの思想家としてのビジネスモデルも、他の哲学者とは全く違っていた。彼は信奉者からなるサークルを作り、組織化した。リュケイオンやアカデメイアと違い、全く私的な学園であった。学園では位階制が取られて宗教的な組織構成を持ち、入学に際しては「私は喜んでエピクロスにしたがおう。彼にしたがうことが私の生きるよすがである」という誓約書を出した。学園には女性も数多く混じっていたが、これは男尊女卑の風潮が支配的だった当時としては特異なことだった。

学園には老若男女誰でも受け入れられていた。そして学園では出版活動が重んじられ、奴隷による筆写が盛んに行われていた。学園の教科書を準備しなければならなかったという理由もあって、彼の著作は並外れて多く300巻以上もあったという。学園の目的は「真の哲学の普及」にあったので、その門戸は開かれ、誰にでも公開されていた。このように、エピクロスが他の哲学者と全く違ったのは、権力者に取り入ることなく、市井の人々に広く訴えることで収入を得た点であった。

エピクロスの名は、「エピキュリアン=快楽主義者」の元になったが、実際の彼の哲学は快楽主義とはほど遠い。彼は快こそ自然から命じられた目的であるとは考えた。しかし思慮を持ち健康であることにともなう快こそ持続的で基本的な快だとし、その他の快は余計なものだとした。例えば、お腹が減った時に食事をするのは快であるが、その上美味しいものを食べたいと思うのは、同じ快であっても質的に異なる余計なものだいう。

そのため、学園の生活は当然に質素なものとなった。彼の思想は、快楽主義というよりも、必要最低限の充足で満足すべきという禁欲主義に接近した。

また、エピクロスは神の摂理や霊魂の不死、祈祷といったものも否定した合理主義的側面があった。しかし学園においてはエピクロス自身が崇拝の対象となっており、それは他の学派から揶揄されることもあった。一方で宗教的行事が持つ道徳的影響については敏感であり、サークルの人々のための祭りが慣習的に催された。彼は、宗教を国民国家が利用したような形で見ていたようなフシがある。

本書にはこのほか、エピクロスの思想として基準論、自然学、倫理学について述べられている。しかし、現代の科学を知っている目からすると、これらについてはさほど重要とも思われず斜め読みした。

名高いが簡便な紹介本に恵まれていないエピクロスについて、概略を知ることができる手軽な本。


2017年6月16日金曜日

『庭園の世界史―地上の楽園の三千年』ジャック・ブノア=メシャン著、河野鶴代・横山 正 訳

世界の諸民族がどのように庭園を造ってきたかエッセイ風に語る本。

著者ブノア=メシャンは庭師ではないし、庭園の専門家でもない。中近東を中心とする在野の歴史家である。本書は、歴史家の視点から中国、日本、ペルシア、アラブ、イタリア、フランス、スペインの代表的な庭を紹介してその背景となる考え方を語るものである。

庭の様相については、何の樹木が植えられていたか、といった具体的な部分についてはさほど触れられず、ほとんどがその構成(設計)の説明に終始している。そして本書の中心は、庭の構成にあたって一体どのような価値観や美意識が働いていたのかという、いわば庭の哲学・美学を語ることであり、それは本書の用語では「庭の神話学」と表現されている。

その内容は非常に理念的なものであって、頭でっかちすぎるきらいがある。正直、ピンと来ない説明が多かった。その上、中国と日本の庭園に関しては、著者は全く実見せずに文献のみによって様々に論評していて(歴史家ならではとも言える)、基本的にかなり褒めているので東洋人として悪い気はしないが、ちょっと正鵠を射ていないようなところも散見された。

私が本書を手に取ったのは、本書にはメディチ家のロレンツォが作ろうとしていて果たせなかった庭のことが書いてあるからで、特にその庭にどのような樹木を植えようとしていたのかが知りたかったのだが、前述のように本書は樹種についてはほとんど触れられていないからそれは分からなかった。

この庭は、ロレンツォがルネサンス精神の体現として計画したもので、プラトニズムの理想を表す大規模な構成と知的な仕掛けによって古今不滅の庭となるはずのものであったが、ロレンツォの死によって中断され、その後雲散霧消してしまったものである。この計画のデッサンを著者は1927年にフィレンツェの市庁舎で見つけて記録し、本書の記述はこれに基づいている。しかしこのデッサンは第2次世界大戦で失われてしまったという。よって、このロレンツォの未完の庭は本書だけが伝えるもので、その検証もできないという幻の庭なのである。

本書に扱われるもう一つの幻の庭は、ルイ14世がヴェルサイユを越える庭としてつくりだした「マルリの庭」である。ヴェルサイユの庭園はフランスの庭園文化の一つの到達点とされるものであるが、ルイ14世はこの庭に次第に飽きるようになった。そして自分だけの隠棲の場所として計画したのがマルリ宮である。最初は密やかな場所であったが次第に計画は拡大され、巨費が投ぜられてヴェルサイユ以上に独創的な庭園として発展し、やがてはここで重要な政務も執るようになった。ヴェルサイユは貴族にとって特別な場所ではなかったが、マルリに招かれるということは「王の側近…(中略)…のごく少数の選ばれたグループに属することを意味した」のだという。

このマルリの庭へ王が情熱を傾けるところは、筆が冴え渡っているところで、ここはさすが歴史家という感じがした。

ところがこのマルリ宮は、今ではその痕跡も留めない。フランス革命によってこの庭園は競売に付され、庭に飾られていた傑作の数々は順次売り払われ、無関心の裡に破壊されていったのであった。こうして究極のフランス式庭園は、あっけなく消えてしまったのである。

ところで本書の大問題は、講談社学術文庫に入れる際に内容とかけ離れた大げさな題名をつけたことである。本書には庭園の世界史は語られない。原題は、『人間とその庭、あるいは地上の楽園の変容』である。こちらの方が、内容と合致していてずっとよい。

題名と内容が乖離しており、庭の哲学・美学の説明はかなり理念的であるが、失われた庭についての話は面白い本。

2017年6月11日日曜日

『シルクロードの天馬』森 豊 著

シルクロードにおける天馬の図像史。

著者の森 豊氏は研究者ではなくジャーナリスト(新聞記者)。しかしシルクロードに魅せられてシルクロードに関する著作が多く、「シルクロード史考察 正倉院からの発見」という叢書が(少なくとも)20冊刊行されている。本書はその13番目で、天馬——翼を持つ馬、天を翔ける馬——の図像が、シルクロードにおいてどのように伝わっていったかということを述べるものである。

基本的には、各種の図録や論文から事例を引いてきて天馬の事例を紹介していくという内容。日本から始まり、中国、中央アジア、中東、エジプト、ギリシアとシルクロードを遡っていく形で天馬のあれこれが語られる。ややエッセイ風な記述で、そこに考証や仮説といったものはあまり述べられないし、掲載された図版もちょっと少なめで天馬の図像史を明らかにするというものでもないが、著者はこれを専門に研究しているわけではないのでこれくらいの軽さは適切である。

本書に述べられる天馬の図像伝達史を簡潔に述べればこうである。本来翼を持たない生き物に翼をつけるという発想が産まれたのは中東からエジプトにかけてのことで、その時期は明確ではないが紀元前2500年以前に遡る。アッシリアでは翼のある人面獣が守護神的に信仰されたり、翼ある神が信仰された。しかし古代の幻想の有翼獣は、古くは獅子(グリフォンなど)であり、牡牛であり、羊であって、馬はいなかった。

馬に翼を生やすという着想を得たのは馬を重視する遊牧民の手に掛かってのことで、ギリシア、ペルシア、インダス文明あたりからのことである(が、はっきりとは分からない)。翼を持つ天馬は、ギリシア神話におけるペガサスが有名であるが、ユーラシア全体にその図像が分布しており、特にササーン朝ペルシアの影響力が大きいようである。中国では、天馬が竜への信仰と集合して竜馬(りゅうば)へと変遷していった。日本にも天馬は既に5〜6世紀に伝えられており、正倉院宝物にも天馬があしらわれた文物が収蔵されているのである。

本書を読みながら、80年代の「シルクロードブーム」が思い起こされた。ブームは「NHK特集 シルクロード」に追う面が大きかったとしても、80年代には本当に多くの人がシルクロードへの関心を持っていたのである。井上靖、平山郁夫、司馬遼太郎、松本清張…。小説や芸術の分野で多くのシルクロード関連作品が生まれたことだけでもその傍証とするに足る。当時はシルクロードの諸国にようやく行けるようになった時代で、どんどん研究が進んだ時期だという背景はあるが、今から考えると、どうしてこんなにシルクロードが人々の心を捉えていたのか不思議なくらいである。

しかし本書を読みながら、シルクロードへの関心は、日本の国際協調路線が確立したことを以て(特に日中国交正常化の影響が大きかっただろう)、日本の文化を「シルクロードの終着点」として世界的に位置づけ直すという心理的・象徴的な国民的ムーブメントだったように思った。当時はまさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にさしかかろうとしていた時だったけれども、日本文化の独自性とか、優越性といったことを言うのではなくて、日本文化もユーラシア大陸の中に連綿と繋がった文化の珠の一つであるという認識を、我々は創り出そうとしていたのかもしれない。

そういう意味では、今の社会情勢に照らしてみると「シルクロード」は人気の出ない切り口だろう。「シルクロード」は、日本の国際協調路線を文化・心理面で支える重要な「思想」だったのではないか。本書を読みながら、そんな気がした。

2017年6月4日日曜日

『日本の名随筆 45 狂』中村 真一郎 編

説明不要の随筆の集成「日本の名随筆」より、「狂」にまつわる27編。

狂気や精神病、偏執症といったものに関する随筆が多い。というより、そうでないものは、西垣 脩「風狂の先達——増賀上人について」と石川 淳「狂歌百鬼夜狂」の2編のみである。

なかでも、印象深かったのは島尾敏雄「妻への祈り」。

これは、精神に異常をきたした妻を献身的に看病しつつも振り回されて、生活はめちゃくちゃになり、最後には転地療養のために妻の地元である奄美へと家族で移住していくまでの話(実話)である。

この話だけを読むと、狂気に冒された妻をその身を犠牲にして看病する夫、という美談に思えるのであるが、後代の我々は、そもそもこの妻の精神がおかしくなった理由は、夫(島尾敏雄)が愛人との情事にふけって家庭を顧みなかったことにあると知っている。となると、自分のせいで妻が病気になったことを棚に上げて、献身的に看病する自分のみを都合よく作品化する夫の方こそ狂っていて、病気になった妻の方がよほど正常だったのではないか、と思えてくる。

このように、「狂」ということの空恐ろしい魅力は、「狂っている方が正常で、実は正常だと思っている私たちこそ狂っているのではないか」という逆転がありうることだ。というのは、狂った世界にあれば狂った人こそ正常で、狂っていない人の方が異常だからである。狂っている人には自分が狂っていることはわからないから、自分は正常だと思い込めるし、私たちがそうであるかもしれないのだ。「狂」はあくまで、相対的概念だ。

「妻への祈り」の場合も、確かに病理学的に狂っていたのは妻の方であるが、その背景を知ってみると作家自身の方も深い狂気へと陥っている。島尾は、文学で身を成すため、というより売れっ子になるために、自らの浮気によって狂った妻を赤裸々に描いて売文していたのだ(『死の棘』として出版され高評価を受ける)。島尾は、狂った妻を文学的に利用したのである。こんなことは、とても普通の精神では行えない。当時は「私小説」が流行っていた時期で、破滅的な私生活を「赤裸々」に書くことが売れっ子になる近道だった事情があるとしても、相当に厚顔無恥であったか、あるいは島尾自身も狂っていたかだろう。

さらに、未読であるが『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯 久美子)によると、妻の方にも浮気による精神疾患だけとはいえない狂気の世界があって、自分の病状が文学的価値を持つことを理解するや、夫の作品の題材となることに自らの存在価値を見いだして、あろうことか原稿チェックまでしていたという。

しかしそういう状態を、献身的な夫と(なぜだか)精神病になってしまう困った妻、としてあくまでも自分に都合よく描いている「妻への祈り」は、短いながら寒々とした狂気を感じる作品である。

2017年6月1日木曜日

『狐になった奥様』ガーネット作、安藤 貞雄 訳

不思議にも狐になってしまった妻をあくまで愛し抜こうと苦悩する男の物語。

主人公デブリック氏の妻は、ある日散歩中に突然狐になってしまう。その時は精神はまだ元の人間のままで、突然の変身に悲嘆しつつも狐の姿で夫と共に暮らしていくが、だんだん野生化していき、次第に人間であるよりも狐らしくなって、家を飛び出して狐として生きるようになる。

一方デブリック氏は、そんな妻を人間であった頃と変わらず愛そうとする。最初は、狐の中に潜む妻の人間性を愛おしんでいるが、その人間性はどんどん失われていってしまう。それでもデブリック氏は狐を愛そうとすることを辞めない。苦悩と悲嘆の果てに、狐を狐として愛するようになり、雄狐へ嫉妬するようにすらなる。しかしその嫉妬すらも乗り越え、最後には狐や子狐たちへの無償の愛の境地へと至るのであった。

本書は、カフカの『変身』を髣髴とさせるものであるが、『変身』が様々な寓喩的解釈を惹起するのと違い、いかなる寓喩をも拒絶するかのような内容である。例えば、妻が狐になったということは、一体何を表しているのか? といったことを考えてみても、浮気、精神病、認知症、本来の自己への回帰、といったものの寓喩ではないか、といったありがちな解釈は全く当たらない。妻は夫との生活に満足し、自尊心を持って生きており精神的にまいるようなこともない。狐になったことには苦悩するがやがて狐として自立した生き方をするようになるし、無残に死ぬだけのグレゴール・ザムザとは違う。

こういった調子で、妻が狐になったこと一つを取ってみても、一体それが何を寓意しているのか読者にはサッパリ分からない。むしろ「解釈」といった浅知恵を捨てて、この物語そのものをただ理解して欲しい、という意志を感じさせる作品である。この物語のテーマは何か、ということすら型に当てはめて考えることはできない。

だがこの物語は、何かの寓意であろうとなかろうと、どんなテーマの下に書かれていようと、非常に面白く、一気に読ませるものである。

本書によって思い起こされるもう一つの作品は『美女と野獣』だ。ディズニー版の『美女と野獣』は、「見た目に騙されてはいけない」という教訓的テーマがありながら、結局そのテーマは作中であまり省みられず、最終的には美男美女の幸せな結婚へと話が回収されるが、本書の場合は美女が野獣化して、それを受け入れて野獣を愛す男の話となっており、より美醜を超えた愛の形が徹底している。

しかしやはり、本書を「真実の愛がテーマの本」などとまとめることには違和感がある。デブリック氏が到達したところが、真実の愛であったのか、それとも狂気の世界だったのか読者には分からない仕掛けとなっており、むしろ自分も野生化して狐と同化していったくだりから判断するに、狂気的な部分が大きい。そもそも、妻が完全に狐になった時点で、デブリック氏は新たな妻を迎える選択もできだだろうに、なぜそこまで狐に執着するのかという点からしてもほとんど狂気的な愛情を感じるところである。

だが、「狂気をも突き抜けた愛」がテーマかというとそれも違う。作中では、デブリック氏はあくまで冷静な紳士であり、常識人として描かれる。妻への愛だけは人並み外れているが、決して狂人ではない。

愛、美醜、狂気…こうして並べてみても本書を説明するキーワードにはならない。というより、本書のテーマは何なのか、と問うこと自体が、何か野暮な気さえしてしまう。

こういった調子で、本書はあらゆる解釈を峻拒して、ただ作品それ自体として屹立するような傑作である。

2017年5月26日金曜日

『あなたの体は9割が細菌:微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン 著、矢野 真千子 訳

腸内微生物がいかに人間の心身の健康に影響しているかを述べた本。

我々の体内には100兆個もの微生物が棲んでいて、それらは単に消化を助けるといったことに留まらない多様な役割を担っていることが分かってきた。「人間」を理解するためには人間そのものだけを研究してもだめで、細胞の個数としては90%を占めるこれらの微生物群(マイクロバイオータ)をも理解しなければならない。

かつては、マイクロバイオータは文字通りブラックボックスであった。人間の腸内に棲息する微生物は多くが嫌気性で酸素に触れると死んでしまうので人工的な環境で培養が難しい。だからどんな微生物がいるのかよくわかっていなかったが、DNA解析の技術が進んでそれが可能になった。具体的には、単離・培養しなくても生物群をまとめてDNA解析することで、どんな微生物がいるのか一括で調べることができるようになったのである。

こうして、腸内を調べることができるようになると、マイクロバイオータは指紋のように人それぞれで異なっていて、これまで考えられていた以上に我々の健康を左右しているということがわかってきた。

特に、「20世紀病」と呼ばれる病に、マイクロバイオータが深く関係していた。例えば、1型糖尿病(インスリンを分泌する組織を免疫系が破壊してしまう糖尿病)、アレルギー、肥満、自閉症といったものにだ。

1型糖尿病やアレルギーは免疫系の誤作動と言えるが、実は免疫系組織の60%は腸内にあり、腸内のマイクロバイオータがこうした誤作動の原因となっているのではないかと推測されている。例えば、子どもの頃にたくさんの抗生物質を処方された人はアレルギーになりやすいという。これは、抗生物質そのものがアレルギーの原因になったというよりも、抗生物質によって腸内のマイクロバイオータが攪乱されて本来あるべき微生物の生態系が形成されないことが原因であると考えられる。

ちなみにニキビも腸内マイクロバイオータが一枚噛んでいると考えられている。未開社会にはほとんどニキビはなく、先進国にしかみられない。ニキビは洗顔が足りないからできるのではないのだ。しかも、顔に棲んでいる細菌というよりも、腸内環境の方がニキビに大きな影響を及ぼしている可能性が高い。

もっと関連が明らかなのは肥満である。例えば肥満の人と痩せ型の人の腸内マイクロバイオータを比べると違った特徴が現れる。では、それは肥っているからマイクロバイオータが
肥満型になのか、それとも肥満型のマイクロバイオータを持っているから肥るのか、因果関係はどっちなのだろうか?

マウスで実験してみるとそれがわかる。肥満マウスの腸内マイクロバイオータを無菌マウスに移植すると、過食するわけではないのにそのマウスは肥ってしまう。そのマウスに次に痩せ型マウスの腸内マイクロバイオータを移植すると、今度は痩せはじめる! 肥満の原因は、食べ過ぎや運動不足、つまり摂取カロリーが消費カロリーを上回っていることだと思いがちだが、それよりもカロリーのやりくりの仕方が鍵だ。その「カロリーのやりくりの仕方」を決めているのが、どうやら腸内マイクロバイオータらしい。

腸内マイクロバイオータの多くは大腸に棲んでいる。大腸は、かつてはただ水分を吸収する重要でない器官と思われていたが、人間(小腸)に分解できなかった食物を微生物に分解させ、人体に有用な物質へと変換し、また免疫系の中枢の一つとなっている重要な器官だということがこうしてわかってきた。

腸内のマイクロバイオータは免疫や体型に影響を与えるだけでなく、精神面にも大きな影響を及ぼす。その一つが自閉症で、幼い頃に抗生物質によって腸内環境が大きく破壊されてしまった人が自閉症になるケースが散見されている。自閉症の人の腸には有害な微生物が多く存在していて、それが症状の原因となっている可能性がある。実際、ある種の抗生物質を投与してその有害な微生物を殺すと、一時的に自閉症の症状が軽くなるという。このほかにも、腸と脳が繋がっているという様々な事例が報告されている。

このように、腸内のマイクロバイオータは我々の心と体の健康に深く関わっていることが徐々に明らかになってきたのであるが、「20世紀病」が20世紀ににわかに増加してきたのはまさに腸内のマイクロバイオータの問題だったと思われる。

「昔はアレルギーなんてなかった」という証言に対して、「昔もアレルギーはあったが、より重大な疾患・感染症の陰に隠れて見えなかっただけ」という意見がある。しかし1型糖尿病は特に戦後に有意に(しかも急激に)増加しているし、自閉症だって有病率が有意に増加している。かつて目立たなかったものが目立っているだけ、では説明がつかない。こうしたものが腸内のマイクロバイオータによって引き起こされているとするなら、1940年代からの抗生物質の普及と濫用がその原因として浮かび上がってくる。

抗生物質は生命を救う薬であるが、そのリスクがはっきりとはわからなかったために軽度な病気でも「念のため」と処方され、先進国では一度も抗生物質を投与されないで育つ子どもはほとんど皆無になった。成長の重要な時期に抗生物質で腸内のマイクロバイオータが攪乱され、豊かな腸内生態系を築けなかったことが、「20世紀病」の発現に関係していそうなのだ。

また、特に大量に抗生物質が投与されているのが畜産産業。食肉には抗生物質はさほど残留していないが、家畜の糞にはたくさん残留していて、これによって作られた堆肥が農地に撒布され、野菜が抗生物質を含んでいる可能性がある。畜産が盛んなアメリカ南部の肥満率が高いことは偶然ではないのではと示唆されている。

そして、腸内のマイクロバイオータ形成に非常に重要だと分かってきたのが自然分娩である。自然分娩では母の膣内に赤ちゃんが必要とする腸内マイクロバイータの「苗」が分娩前に増加してこれを赤ちゃんに受け渡す仕組みがある。さらに、母乳には赤ちゃんの腸内マイクロバイオータを有用・友好的に保つための驚異的な仕組みもある。例えば、母乳には人間が消化できないオリゴ糖がたくさん含まれているが、これは以前は母乳を分泌する際の副産物だろうと思われていた。だがこのオリゴ糖は、赤ちゃんの腸内にいるある種の微生物のための餌だったのである。そして、この濃度は赤ちゃんの腸内環境の変化を主導するように変わっていく。母乳育児というと愛情が深まるとか、心理的なメリットが強調されることが多いが、それよりもむしろ腸内マイクロバイオータの形成において重要な行為なのである。先進国では母子に危険がない場合でも計画的に帝王切開が行われることが多いが、帝王切開と完全な粉ミルクによる育児には、腸内環境が正常に整わないというリスクがある。

このように腸内マイクロバイオータが重要であり、しかもそれが大量の抗生物質で攪乱されているとなると、腸内マイクロバイオータの移植によって様々な問題を解決できるのではないか、という発想が生まれてくる。SF的に言うと、「前向きになる微生物」を移植するとか、「記憶力がよくなる微生物」を移植するといったようなことが可能になるかもしれない。人の9割が微生物でできているのなら、1割の自分自身のDNAを変えることはできないが、残り9割は変えられるということなのだ。それはまだ夢物語であるにしても、ある種の疾患は、既に腸内マイクロバイオータの移植によって治療することが可能になっている。もっとはっきり言えば、「糞便移植」である。

心身が健康な人の糞便を、ちょっとした処理をしてミキサーにかけて直腸から注入する、もしくは経口摂取するという単純な方法で、ある種のひどい下痢などには目覚ましい効果を上げるという。また、難病である多発性硬化症も糞便移植によって治癒したケースがある。さらに自閉症の子どもを抱える親たちも、子どもに糞便移植を行って症状が改善している場合がある。糞便移植は(医薬品を使わないため)医療行為ではなく、未だ医師たちに広く認められてもいない上、それぞれの疾患への効果も科学的に確定していない段階にあるが、腸内マイクロバイオータの改善という意味では確かに有効な方法らしい。こうしたことから、アメリカでは既に糞便バンク(健康な人の糞便を移植用に冷凍保存して活用できるようにするネットワーク)が産まれている。

しかし、藁をもすがる思いの難病を抱えた人と違い、普通の人は健康になるために人の糞便を体内に入れたり、ましてや飲むことなどちょっと考えられない。こういう普通の人は、どうやって腸内マイクロバイオータの改善をすればよいのか。そのためには、食生活の改善しかない。具体的には、食物繊維の多い食事だ。食物繊維は人間には分解・吸収できないが、微生物の食べものになるのだ。現代人のマイクロバイオータが正常に働いていない背景には、食物繊維の明らかな不足がある。タンパク質や脂肪の摂取量は多くなったのに、食物繊維の摂取量は激減しているのである。つまり野菜不足が、「20世紀病」を引き起こす原因の一つかもしれない。

本書全体を通じて感じたことは、我々は腸内に微生物たちを飼っている、というよりは、我々と微生物たちは共に一つのシステムを形成しているのだ、ということだ。我々と微生物は一体不可分であり、互いに影響を与えながら生きる。そのダイナミズムを理解せずして健康になるための方策も分からないのだと痛感した。

なお、著者の専門は微生物学ではないが(専門は進化生物学)、個人的体験から腸内マイクロバイオータに感心を持ち各地の専門家に丁寧な取材を行って書いたのが本書であり、ただ論文を読んで最新の研究事情をまとめた本や専門家から聞きかじった話を見栄えよくまとめただけの本とは違う。サイエンス・ライターとして模範的な仕事ぶりだと思った。

腸内マイクロバイオータの重要性について蒙を啓かされる良書。

2017年5月19日金曜日

『食物と歴史』レイ・タナヒル著、小野村 正敏 訳

人間はどのようなものを食べてきたか、を先史時代から現代まで概観する本。

本書は『食物と歴史』というタイトルだが、原題は"FOOD IN HISTORY"であり、素直に訳せば「歴史における食べ物」であろう。食物の供給と消費が歴史を動かす力になったケースは多々あるが、それを強いてテーマにしているわけではなく、歴史の中に生きてきた人々がどのようなものを、どうやって食べてきたのか、ということを、淡々と、しかし世界史的に述べた本である。

近年になって、こういう「モノの世界史」とでも言うべきテーマの本は数多く出されているし、食文化の歴史の研究はちょっとした流行にもなっているくらいだが、原書出版時(1973年)には、本書はこうした分野におけるまさに嚆矢だったのではないかと思う。

食文化の世界史という初めての試みであるため、それぞれの記述についてはさほど綿密な考証を経ていないように感じられる。しかし、ともかくも先史時代から現代まで、どういったものが生産され、調理され、消費されてきたか、ということを統一的に記述したことは画期的である。しかも、とても柔らかい語り口で、大変に読みやすく、大著であるにも関わらずスラスラと読める。とはいっても編集は硬派であって、横書きで版組みされて、定訳がないような単語や人名にはいちいち原語が表示してあり、参考文献や注は丁寧である。その上図版も豊富であり、非常なる労作でしかも信頼できる本である。

本書を読んで、食文化の歴史において重要な要素が3つあると感じた。

第1に、安定的な穀物の供給である。これが人間社会の基礎をつくる。これがうまくいかなくなるとき、その文明は崩壊してしまう。

第2に、畜肉の供給である。肉は人間社会にとって様々な意味合いを持つ食品であり、単なるタンパク質と脂肪の供給源ではない。だがその供給は不安定であり、特に冬期には干し肉や塩蔵肉を食べなくてはならないことからヨーロッパではスパイスへの強い志向が生じた。

第3に、奢侈としての食事である。富める人々にとって食事はほとんど遊興であったように思われる。しかも中世には、美味しさよりも素材の貴重さ・珍重さということが重視され、「くじゃくの脳、フラミンゴの舌」といったものが使われたりした。こうした衒学的な料理は、大して美味しくはなかったかもしれないが、料理の可能性を広げることに役だったのだろう。

もちろん、これ以外にも食文化の発展に寄与した事項はいろいろあって、調理道具の進歩、テーブルマナーの変遷、流通や保存法の改善といったものもかなり重要である。

本書は、あるテーマの下に歴史を概観するものではなくて淡々と食文化の歴史を語っていくものであるから、そこに大上段で構えた主張があるわけでもなく、何かが分かった気になれるような本ではないが、記述の端々にヒントが隠されているようなところがあり、さらなる考究へ誘う出発点のような本であると思う。

食べものの来し方行く末を考えさせる非常なる労作。

2017年5月14日日曜日

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著(その2)

江戸中期までの儒学の勃興と挫折を経て、本居宣長が登場する。宣長は古事記を研究して、神代からの歴史における日本人の優れた心根を称揚した。

日本人は、心もふるまいも素直で雅やかで、天下は穏やかに治まってきているから、中国のように煩わしく難しい社会制度など不要だというのだ。彼は和歌や王朝物語も研究し、そこに現れたはかない人情、雅な心こそが重要だと説いた。

宣長は、道理(道)は人の本性ではなく、むしろ虚飾だとする。儒学では、世界は秩序と規範によって治まるものとされるが、宣長は逆にそこから逸脱するものを「心のまこと」として重視した。彼は師と仰いだ賀茂真淵の考えを受けて、日本人には儒学による統治など必要ないのだと嘯いた。

こうして、過去の日本人を理想化し、そこへ復ることが宣長の目標となった。しかし宣長は儒学者たちと違って、社会の変革は目指さなかった。それどころか、むしろ社会に順応して平凡に生きることを選んだ。彼にとっては、今を古に「見立てて」生きることで、「古の大御代」を生きることができたのである。

「人の今日の行ひは、だだその時々の公の御定めを守り、世間の風儀に従ひ候が、即神道」なのだ。これはちょっと倒錯的な考えなのかもしれないが、雅やかではかない人情こそ至上であり、穏やかに天に従って生きる日本人を目標とする彼にとってみれば、たとえ俗悪なる政府だったとしても、それに反抗するような真似は日本人らしくないのである。

それに、日本は天皇を戴く特別な国なのだ。「本朝は、天照大御神の御本国、その皇統のしろしめす御国にて、万国の元本大宗なる御国」(!)だと宣長は言う。天皇は徳によってではなく、神の子孫であるという神聖性により国を治めている。であるから理屈を廃して、ただ恭しく御上に従えばよいというのである。

日本は、天皇ではなく将軍の統治する国ではないのか? との疑問も湧くが、実はこの宣長の考えは次第に実質化していった。宣長が常用した「皇国」という言葉が、速やかに普及していったことはその象徴である。朝廷の権限は別に強化されていっていないのにだ。

そもそも、幕府は形式上こそ天皇から任命されて統治を行っていたが、実際には朝廷の上に立っていた。徳川家康は「禁中並公家諸法度」を定めて朝廷の行動を制約している(これは一度も改正されない)。年号の改元すら、江戸の当初は天皇の即位ではなく将軍の即位に合わせて行われたし、形式的には朝廷が与えることとなっている官位(「従三位」など)も実際には幕府が自由に発令することができた。

ところが、幕末にかけて日本はにわかに「皇国」となっていく。それはなぜか。

その大きな要因に、幕府や武士たちの権威の低下があるという。江戸時代というといわゆる士農工商の身分制度があり、固定的な社会であったことが想像される。しかし実際には、百姓や町人は、定められた義務さへこなせばあとは自由だった。身分制度や家職制(イエごとに商売が決まっている)はあったものの、その中で努力すれば栄達は望めた。百姓ですら、意欲的に経営を行えば豪農となって、いわば経営者として暮らすことはできたのである。

だが武士は違った。予め定められた家格の中でしか人生を送ることはできなかった。どんなに優秀でも、無能な上司に従わざるを得なかったし、昇進の可能性もなかった。上級武士はいいとしても、下級武士にとっては飼い殺しにも等しい状態であった。それは構造的な問題でもあっただろう。もはや太平の世の中で武士は本質的に不要なのだ。いくら二本の刀を掲げてみても、その刀を振るう機会は一生やってこないのである。

その上、俸禄(給与)は十分に支払われなくなった。百姓は、自ら「御百姓」と称し、お殿様のかけがえのない領民であることを強調して、しばしば増税を阻んだ。下級武士は、誇りだけはあったが、貧乏で、権威もないという状態へ陥っていた。

「昔は町人の娘はとかく武士の妻になる事を好みけるゆゑ、御禁制にもなりたる程なるが、今は武家の妻女になる事などは風上にも嫌ひ、(中略)武家の風儀は無風流なりとて忌み嫌ひ」という状態だ。要するに、武士は貧乏なうえにダサくて、町人の娘にとってまっぴら御免だというのだ。武士は、町民の娘からすら軽んじられていた。

もはや、「御威光」は存在しなかった。江戸幕府にとっての唯一の支配の力であった「御威光」がなくなったら、あとは「禁裏(朝廷)からの大権委任」という形式論で統治の正統性を強調するしかない。社会的威信のなくなった武家は、公家の権威を利用したのだ。その依存は次第に深まり、やがて「公武合体」へと進んでいく。武家は、「公」の威を借りなければ日本を統治することができないほどに落ちぶれていったのである。そしてその裏返しとして、日本は「神国」であるとか、皇統の連続とかが強調され、国学が花開いていくのである。

こうした趨勢の中で、日本は「開国」を迎える。開国というと、まずは黒船に代表される外国からの軍事的圧力に屈したものだと考えがちであるが、著者によればそうではないという。

開国の前から漏れ伝えられてきた西洋の有様を調べると、どうも「道」の実践において西洋の方が勝っていると考えられた。西洋は、学問が盛んである、人を大事にする(儒学的に言えば「仁」)、政治制度が整っている、というようなことからだ。民主主義によって大統領を選ぶやり方は、中華古えの理想に近く(禅譲)、儒学者たちから誉め称えられた。ペリー来航のはるか前に、普遍妥当の「道」を信ずるがゆえに西洋をみとめ、「皇国」というプライドの裏側で、日本の統治に疑問を持つ態度が醸成されてもいた。

そういう西洋が、日本に開国を要求してきたのである。しかも軍事的に制圧するというような脅しではなく、補給をしたいとか、遭難者を送り届けたいとか、儒教的に言えば「礼」に基づく要求として、正々堂々と主張してきた。これに対して、猛々しい海防の戦術論や、夜郎自大の攘夷論も起こったが、この主張を真面目に受け取ると、相手の道理を認めざるを得ない。実際に、開国すべきか否か諮問された大名たちはそのように意見した。「開国」とは、軍事技術の脅威も背景にはあったが、それよりも普遍的に妥当する「道」に関する説得に出会い、倫理的・思想的な挑戦を受けた結果でもあったのである。

このように、本居宣長がことさら儒学を否定しようとしたほど、この頃は儒学が日本に浸透していたのだ。その結果、実力による制圧と土地の給付による主従関係(徳川と大名への服属)よりも、官位授与による君臣関係(天皇と臣民)こそ「義」だと往々信じられた。こうして、禁裏(朝廷)自身は派手な宣伝活動をしたわけでもないのに、どんどんその威光は高まっていった。一方で、禁裏自身には自ら独裁者となる気概はなかった。そのため、禁裏を担げばそれによって権力を握り、政局を動かせるという構造が成立した。これが明治維新を動かす公然たるルールになった。

こうして、江戸時代の矛盾を解消するべく明治維新が動き出した。それは特に、飼い殺しされてきた下級武士の鬱屈の解消だ。彼らは「立身出世」できる自由を欲していた。そしてその統治原理として、「公議輿論」が持ち出された。これは民主主義というよりも、「人心の居合」を秩序の条件とする儒学的な発想から、「衆議」「群議」によれという手続き論が支持された結果だ。よって、五箇条の御誓文の第一は、「万機公論に決すべし」となった。

しかしこの「公論」の重視は、ひとたび明治政府が確立するとそれ以上に育てられることはなかった。岩倉使節団が西洋の事情をつぶさに観察してみると、西洋文明の根幹にキリスト教があり、その信仰が社会の基盤となっていることに気づいた。そこで、伊藤博文らはキリスト教の代替物として「皇室」を臣民に崇拝させることで、国家を統合することを企図した。

福沢諭吉は、文明の根幹はキリスト教ではなく「独立の精神」だとしたし、ほとんど朱子学者であった中江兆民はルソーと孟子の一致を感じ、普遍的な「理義」にそれを求めたが、こうした民衆を鼓舞し内省を促す理論は十分に育たず、結局次の時代の大きな思潮は皇学へと収斂していくのである。

本書は、東京大学での講義を元にしたものであり、特に前半はいわゆる「名物教授」的な雰囲気が強い。つまりアクが強いのである。しかし中盤以降はその調子に慣れてくるからかほとんどエキサイティングとも言うべき迫力があり、江戸時代の儒学という地味なテーマが非常に面白く感じられる本である。

しかし、取り上げる思想に粗密があるからなのか、幕末をあれだけ騒がせた吉田松陰などは全く触れられていない。また、著者自身が後書きで述べているとおり平田篤胤も「扱うべくして扱えなかった」とされている。幕末の志士への影響力という点で言うと、宣長よりも篤胤の方が数段大きいような気がするが、どういう判断で篤胤には詳しく触れなかったのだろう。

そういう編集方針に対する疑問もあるにはあるが、とにかく平板になりがちな政治思想史を面白く書くという意味では成功している本であり、タイプは違うがマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を彷彿とさせた。

明治維新を理解する上での基礎となる日本儒学が辿った近世史を、深く面白く学べる本。