2017年4月22日土曜日

『島津重豪と薩摩の学問・文化—近世後期博物大名の視野と実践』 鈴木 彰・林 匡 編

島津重豪とその周辺に関する論文集。

幕末に薩摩藩が雄藩として活躍するその素地を作ったのが島津重豪である。長く薩摩藩の政務の中心にいた重豪の業績は多岐にわたるが、特筆すべきは各種の出版事業や学校の設立など文教政策である。

本書は、重豪の文教政策を柱の一つにして、重豪を取り巻く人々や薩摩の文化状況、そして琉球との繋がりまでを視野に、13の論文と4つのコラムによって構成されるものである。

その内容は、出版社のウェブサイトに掲示されているので詳述しないが、特に面白かった論文は松尾千歳による「広大院—島津家の婚姻政策」というもの。広大院とは将軍家斉に嫁いだ重豪の娘・茂姫のことで、将軍の御台所(正妻)は公家または摂家から迎えるのが通例だったところ、これは将軍家にとっても島津家にとっても異例の婚姻であった。

その背景には重豪の祖母である竹姫の存在もあるが、戦略的に実現したものというよりも、いろいろな偶然が重なって行われた結婚であった。しかしそれが及ぼした影響は甚大であり、外様大名が将軍の岳父となるという立場上の大転換は、薩摩藩の雄飛に一役買っているのである。もちろんこのことは篤姫にまで繋がっていく。そうしたことは聞きかじっていたものの、本論文はそのあたりの事情を丁寧に追っていて非常に面白かった。

ところで、本書を手に取ったのは、重豪と国学との繋がりはどうだったのだろうという興味からである。

平田篤胤は重豪をたびたび訪問しており、重豪は篤胤に「顕幽無敵道」という額を与えたことから国学に私淑していたと見なされることもあるが、一方では仏教への信仰も篤く、特に黄檗宗との関わりは深い。黄檗宗は禅宗の中でも最も中国的な宗派であるから、国学とは相容れない部分がある。

とはいえ、国学者・博物学者の白尾国柱を取り立てて『成形図説』という農業生物百科全書を編纂させたり、神代山稜を研究させたりといったこともしており、国学的な方向の業績があるのも確かである。一体、重豪は国学とどのように付き合ったのだろうか?

本書には、その疑問に直接答えるような論文はないのであるが、関連するいくつかの論文を総合して考えると、重豪は様々な分野に関心を寄せたため、国学もその中の一つとして学んだが、特にこれを重視するということもなかった、とまとめられると思う。

実際、薩摩藩から本居宣長の門人となっているのは日向国諸県郡高岡の横山尚謙、毛利勝作、有馬直右ヱ門の3人に限られるという(つまり薩摩・大隅の人間は一人も宣長の門人となっていない。これは九州では例外的)。少なくとも、宣長についてはさほど重視されていなかったのは事実であろう。

では問題の平田篤胤についてはどうか。明治に至るまで、薩摩藩からは数多くの藩士が平田国学の門人となっていた。篤胤と重豪が交流していたことを考えると、その源流は重豪の頃に求められそうである。とはいっても、重豪は組織的に国学を推進するということもなかったようだ。本書掲載の論文、永山修一「学者たちの交流」によれば、「少なくとも儒学・国学の面では外からの積極的な人材起用は不十分で、藩外からの評価は高いものとはならなかった」ということである。

おそらく、重豪自身は平田国学をさほど重んじていなかったのだろうと思う。蘭学や中国に大きな関心を持っていた重豪が、日本を極度に特殊化して偉大な国に仕立て上げる平田国学を好んだとは思えない。しかしながら、篤胤との個人的な繋がりもあってこれを無下にすることもなかった。それで結果的に、藩士たちが平田国学へと向かう素地が作られたのではないだろうか。

2017年4月6日木曜日

『契沖の生涯』久松 潜一 著

江戸時代の国学者、契沖(けいちゅう)のコンパクトな伝記。

契沖といえば、江戸時代の国学者の中でも最も早く頭角を現した国学者の嚆矢とも言える人物であるが、本居宣長や平田篤胤に比べるとあまり知られていない。私も契沖の研究業績については多少知っているが、どんな人物であったのかよく知らなかったので手に取ったのが本書である。

没落しつつある武士の子として生まれた契沖は、11歳で出家し真言宗の僧侶となった。幼少の頃より抜群の記憶力だったようだ。13歳で高野山に入って約10年間仏道を修行した。この頃、快賢という僧侶について学んだが、この快賢が仏学のみならず神道や和学(日本古典文学)にも通じていて、このことが契沖を真言僧侶でありながら国学の道へ進ませた大きな要因であると見られる。23歳くらいの頃、契沖は高野山を下りて曼荼羅院という寺の実務を担当するようになった。

契沖は寺務をこなしながら、古典研究に励むようになる。そして彼は曼荼羅院を去り山寺にこもって修行したり、各地を放浪したりして30代を静かな研鑽の時代として過ごした。現実の人生に飽き果てた彼は、隠棲にも等しい生活をしながら、仏典漢籍の研究や悉曇(サンスクリット)学の研究を進めていったらしい。この頃に、彼は大阪は和泉の伏屋家へと寄寓したが、伏屋家には日本古典文学がたくさん蔵書されていた。日本紀などの国史、和歌、歌書といったものである。契沖はこれらを読破し、やがて日本古典文学の研究を極めていくことになる。

契沖は39歳で大阪の妙法寺という寺の住職となり、ここに身を落ち着けた。契沖としては、俗務に携わることは本意ではなかったかもしれないが、この頃にはすっかり家運が傾いていて、母や兄を養って行かなくてはならないという事情もあったようである。

ところで曼荼羅院時代の下河辺長流との出会いが、契沖の研究人生には大きな影響があった。徳川光圀は下河辺に万葉集の注釈書を執筆するよう依頼していたものの、下河辺は病気のためこの仕事が果たせず交流が深かった契沖を紹介。契沖は求めに応じて主著となる画期的な万葉研究書『万葉代匠記』を完成させ、光圀から白銀千両と絹30匹という当時としては異例な褒美をもらった。

しかしその褒美は貧しい人に施したという。光圀からはこの他にも生活支援も受けていたようである。契沖としては、そうした支援を受けることは心苦しかったが生活のためやむを得なかったようだ。『万葉代匠記』を完成させた後、父母の最期も看取って身軽になった契沖は、元禄の初め頃、妙法寺を去って大阪高津の圓珠庵に移った。ここでは寺の事務もなく、光圀からの援助も受けて悠々として学問に専念することができた。契沖が50代に入ったこの時代が、彼の学問の完成期に当たっていた。

契沖は控えめで謙虚な人柄だったらしい。本居宣長とは違って、弟子もほとんど取らなかった。契沖は天下の青年を指導しようというよりは、深く自己に沈潜して精神を陶冶していこうというタイプであった。そういう契沖が、圓珠庵で気心の知れた弟子たちに向かって行ったのが、万葉集講義であった。その研究の集大成となる万葉集講義を終えてほどなくしてから、契沖は62歳の生涯を閉じた。

本書は昭和17年が初版であり、かなり古いものではあるが割合に読みやすく、契沖の温かい人柄への愛情が伝わってくる好著である。ただし、あくまでも契沖の生涯を辿るという構成であるため、契沖の研究成果についてはほとんど何も述べられない。学者の人生を辿るのにその研究内容について触れないというのは、ちょっと無理があるのではないかという気もする。

そういう意味では物足りないが、契沖という人物を知るにはちょうどよい入り口の本。