2017年5月26日金曜日

『あなたの体は9割が細菌:微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン 著、矢野 真千子 訳

腸内微生物がいかに人間の心身の健康に影響しているかを述べた本。

我々の体内には100兆個もの微生物が棲んでいて、それらは単に消化を助けるといったことに留まらない多様な役割を担っていることが分かってきた。「人間」を理解するためには人間そのものだけを研究してもだめで、細胞の個数としては90%を占めるこれらの微生物群(マイクロバイオータ)をも理解しなければならない。

かつては、マイクロバイオータは文字通りブラックボックスであった。人間の腸内に棲息する微生物は多くが嫌気性で酸素に触れると死んでしまうので人工的な環境で培養が難しい。だからどんな微生物がいるのかよくわかっていなかったが、DNA解析の技術が進んでそれが可能になった。具体的には、単離・培養しなくても生物群をまとめてDNA解析することで、どんな微生物がいるのか一括で調べることができるようになったのである。

こうして、腸内を調べることができるようになると、マイクロバイオータは指紋のように人それぞれで異なっていて、これまで考えられていた以上に我々の健康を左右しているということがわかってきた。

特に、「20世紀病」と呼ばれる病に、マイクロバイオータが深く関係していた。例えば、1型糖尿病(インスリンを分泌する組織を免疫系が破壊してしまう糖尿病)、アレルギー、肥満、自閉症といったものにだ。

1型糖尿病やアレルギーは免疫系の誤作動と言えるが、実は免疫系組織の60%は腸内にあり、腸内のマイクロバイオータがこうした誤作動の原因となっているのではないかと推測されている。例えば、子どもの頃にたくさんの抗生物質を処方された人はアレルギーになりやすいという。これは、抗生物質そのものがアレルギーの原因になったというよりも、抗生物質によって腸内のマイクロバイオータが攪乱されて本来あるべき微生物の生態系が形成されないことが原因であると考えられる。

ちなみにニキビも腸内マイクロバイオータが一枚噛んでいると考えられている。未開社会にはほとんどニキビはなく、先進国にしかみられない。ニキビは洗顔が足りないからできるのではないのだ。しかも、顔に棲んでいる細菌というよりも、腸内環境の方がニキビに大きな影響を及ぼしている可能性が高い。

もっと関連が明らかなのは肥満である。例えば肥満の人と痩せ型の人の腸内マイクロバイオータを比べると違った特徴が現れる。では、それは肥っているからマイクロバイオータが
肥満型になのか、それとも肥満型のマイクロバイオータを持っているから肥るのか、因果関係はどっちなのだろうか?

マウスで実験してみるとそれがわかる。肥満マウスの腸内マイクロバイオータを無菌マウスに移植すると、過食するわけではないのにそのマウスは肥ってしまう。そのマウスに次に痩せ型マウスの腸内マイクロバイオータを移植すると、今度は痩せはじめる! 肥満の原因は、食べ過ぎや運動不足、つまり摂取カロリーが消費カロリーを上回っていることだと思いがちだが、それよりもカロリーのやりくりの仕方が鍵だ。その「カロリーのやりくりの仕方」を決めているのが、どうやら腸内マイクロバイオータらしい。

腸内マイクロバイオータの多くは大腸に棲んでいる。大腸は、かつてはただ水分を吸収する重要でない器官と思われていたが、人間(小腸)に分解できなかった食物を微生物に分解させ、人体に有用な物質へと変換し、また免疫系の中枢の一つとなっている重要な器官だということがこうしてわかってきた。

腸内のマイクロバイオータは免疫や体型に影響を与えるだけでなく、精神面にも大きな影響を及ぼす。その一つが自閉症で、幼い頃に抗生物質によって腸内環境が大きく破壊されてしまった人が自閉症になるケースが散見されている。自閉症の人の腸には有害な微生物が多く存在していて、それが症状の原因となっている可能性がある。実際、ある種の抗生物質を投与してその有害な微生物を殺すと、一時的に自閉症の症状が軽くなるという。このほかにも、腸と脳が繋がっているという様々な事例が報告されている。

このように、腸内のマイクロバイオータは我々の心と体の健康に深く関わっていることが徐々に明らかになってきたのであるが、「20世紀病」が20世紀ににわかに増加してきたのはまさに腸内のマイクロバイオータの問題だったと思われる。

「昔はアレルギーなんてなかった」という証言に対して、「昔もアレルギーはあったが、より重大な疾患・感染症の陰に隠れて見えなかっただけ」という意見がある。しかし1型糖尿病は特に戦後に有意に(しかも急激に)増加しているし、自閉症だって有病率が有意に増加している。かつて目立たなかったものが目立っているだけ、では説明がつかない。こうしたものが腸内のマイクロバイオータによって引き起こされているとするなら、1940年代からの抗生物質の普及と濫用がその原因として浮かび上がってくる。

抗生物質は生命を救う薬であるが、そのリスクがはっきりとはわからなかったために軽度な病気でも「念のため」と処方され、先進国では一度も抗生物質を投与されないで育つ子どもはほとんど皆無になった。成長の重要な時期に抗生物質で腸内のマイクロバイオータが攪乱され、豊かな腸内生態系を築けなかったことが、「20世紀病」の発現に関係していそうなのだ。

また、特に大量に抗生物質が投与されているのが畜産産業。食肉には抗生物質はさほど残留していないが、家畜の糞にはたくさん残留していて、これによって作られた堆肥が農地に撒布され、野菜が抗生物質を含んでいる可能性がある。畜産が盛んなアメリカ南部の肥満率が高いことは偶然ではないのではと示唆されている。

そして、腸内のマイクロバイオータ形成に非常に重要だと分かってきたのが自然分娩である。自然分娩では母の膣内に赤ちゃんが必要とする腸内マイクロバイータの「苗」が分娩前に増加してこれを赤ちゃんに受け渡す仕組みがある。さらに、母乳には赤ちゃんの腸内マイクロバイオータを有用・友好的に保つための驚異的な仕組みもある。例えば、母乳には人間が消化できないオリゴ糖がたくさん含まれているが、これは以前は母乳を分泌する際の副産物だろうと思われていた。だがこのオリゴ糖は、赤ちゃんの腸内にいるある種の微生物のための餌だったのである。そして、この濃度は赤ちゃんの腸内環境の変化を主導するように変わっていく。母乳育児というと愛情が深まるとか、心理的なメリットが強調されることが多いが、それよりもむしろ腸内マイクロバイオータの形成において重要な行為なのである。先進国では母子に危険がない場合でも計画的に帝王切開が行われることが多いが、帝王切開と完全な粉ミルクによる育児には、腸内環境が正常に整わないというリスクがある。

このように腸内マイクロバイオータが重要であり、しかもそれが大量の抗生物質で攪乱されているとなると、腸内マイクロバイオータの移植によって様々な問題を解決できるのではないか、という発想が生まれてくる。SF的に言うと、「前向きになる微生物」を移植するとか、「記憶力がよくなる微生物」を移植するといったようなことが可能になるかもしれない。人の9割が微生物でできているのなら、1割の自分自身のDNAを変えることはできないが、残り9割は変えられるということなのだ。それはまだ夢物語であるにしても、ある種の疾患は、既に腸内マイクロバイオータの移植によって治療することが可能になっている。もっとはっきり言えば、「糞便移植」である。

心身が健康な人の糞便を、ちょっとした処理をしてミキサーにかけて直腸から注入する、もしくは経口摂取するという単純な方法で、ある種のひどい下痢などには目覚ましい効果を上げるという。また、難病である多発性硬化症も糞便移植によって治癒したケースがある。さらに自閉症の子どもを抱える親たちも、子どもに糞便移植を行って症状が改善している場合がある。糞便移植は(医薬品を使わないため)医療行為ではなく、未だ医師たちに広く認められてもいない上、それぞれの疾患への効果も科学的に確定していない段階にあるが、腸内マイクロバイオータの改善という意味では確かに有効な方法らしい。こうしたことから、アメリカでは既に糞便バンク(健康な人の糞便を移植用に冷凍保存して活用できるようにするネットワーク)が産まれている。

しかし、藁をもすがる思いの難病を抱えた人と違い、普通の人は健康になるために人の糞便を体内に入れたり、ましてや飲むことなどちょっと考えられない。こういう普通の人は、どうやって腸内マイクロバイオータの改善をすればよいのか。そのためには、食生活の改善しかない。具体的には、食物繊維の多い食事だ。食物繊維は人間には分解・吸収できないが、微生物の食べものになるのだ。現代人のマイクロバイオータが正常に働いていない背景には、食物繊維の明らかな不足がある。タンパク質や脂肪の摂取量は多くなったのに、食物繊維の摂取量は激減しているのである。つまり野菜不足が、「20世紀病」を引き起こす原因の一つかもしれない。

本書全体を通じて感じたことは、我々は腸内に微生物たちを飼っている、というよりは、我々と微生物たちは共に一つのシステムを形成しているのだ、ということだ。我々と微生物は一体不可分であり、互いに影響を与えながら生きる。そのダイナミズムを理解せずして健康になるための方策も分からないのだと痛感した。

なお、著者の専門は微生物学ではないが(専門は進化生物学)、個人的体験から腸内マイクロバイオータに感心を持ち各地の専門家に丁寧な取材を行って書いたのが本書であり、ただ論文を読んで最新の研究事情をまとめた本や専門家から聞きかじった話を見栄えよくまとめただけの本とは違う。サイエンス・ライターとして模範的な仕事ぶりだと思った。

腸内マイクロバイオータの重要性について蒙を啓かされる良書。

2017年5月19日金曜日

『食物と歴史』レイ・タナヒル著、小野村 正敏 訳

人間はどのようなものを食べてきたか、を先史時代から現代まで概観する本。

本書は『食物と歴史』というタイトルだが、原題は"FOOD IN HISTORY"であり、素直に訳せば「歴史における食べ物」であろう。食物の供給と消費が歴史を動かす力になったケースは多々あるが、それを強いてテーマにしているわけではなく、歴史の中に生きてきた人々がどのようなものを、どうやって食べてきたのか、ということを、淡々と、しかし世界史的に述べた本である。

近年になって、こういう「モノの世界史」とでも言うべきテーマの本は数多く出されているし、食文化の歴史の研究はちょっとした流行にもなっているくらいだが、原書出版時(1973年)には、本書はこうした分野におけるまさに嚆矢だったのではないかと思う。

食文化の世界史という初めての試みであるため、それぞれの記述についてはさほど綿密な考証を経ていないように感じられる。しかし、ともかくも先史時代から現代まで、どういったものが生産され、調理され、消費されてきたか、ということを統一的に記述したことは画期的である。しかも、とても柔らかい語り口で、大変に読みやすく、大著であるにも関わらずスラスラと読める。とはいっても編集は硬派であって、横書きで版組みされて、定訳がないような単語や人名にはいちいち原語が表示してあり、参考文献や注は丁寧である。その上図版も豊富であり、非常なる労作でしかも信頼できる本である。

本書を読んで、食文化の歴史において重要な要素が3つあると感じた。

第1に、安定的な穀物の供給である。これが人間社会の基礎をつくる。これがうまくいかなくなるとき、その文明は崩壊してしまう。

第2に、畜肉の供給である。肉は人間社会にとって様々な意味合いを持つ食品であり、単なるタンパク質と脂肪の供給源ではない。だがその供給は不安定であり、特に冬期には干し肉や塩蔵肉を食べなくてはならないことからヨーロッパではスパイスへの強い志向が生じた。

第3に、奢侈としての食事である。富める人々にとって食事はほとんど遊興であったように思われる。しかも中世には、美味しさよりも素材の貴重さ・珍重さということが重視され、「くじゃくの脳、フラミンゴの舌」といったものが使われたりした。こうした衒学的な料理は、大して美味しくはなかったかもしれないが、料理の可能性を広げることに役だったのだろう。

もちろん、これ以外にも食文化の発展に寄与した事項はいろいろあって、調理道具の進歩、テーブルマナーの変遷、流通や保存法の改善といったものもかなり重要である。

本書は、あるテーマの下に歴史を概観するものではなくて淡々と食文化の歴史を語っていくものであるから、そこに大上段で構えた主張があるわけでもなく、何かが分かった気になれるような本ではないが、記述の端々にヒントが隠されているようなところがあり、さらなる考究へ誘う出発点のような本であると思う。

食べものの来し方行く末を考えさせる非常なる労作。

2017年5月14日日曜日

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著(その2)

江戸中期までの儒学の勃興と挫折を経て、本居宣長が登場する。宣長は古事記を研究して、神代からの歴史における日本人の優れた心根を称揚した。

日本人は、心もふるまいも素直で雅やかで、天下は穏やかに治まってきているから、中国のように煩わしく難しい社会制度など不要だというのだ。彼は和歌や王朝物語も研究し、そこに現れたはかない人情、雅な心こそが重要だと説いた。

宣長は、道理(道)は人の本性ではなく、むしろ虚飾だとする。儒学では、世界は秩序と規範によって治まるものとされるが、宣長は逆にそこから逸脱するものを「心のまこと」として重視した。彼は師と仰いだ賀茂真淵の考えを受けて、日本人には儒学による統治など必要ないのだと嘯いた。

こうして、過去の日本人を理想化し、そこへ復ることが宣長の目標となった。しかし宣長は儒学者たちと違って、社会の変革は目指さなかった。それどころか、むしろ社会に順応して平凡に生きることを選んだ。彼にとっては、今を古に「見立てて」生きることで、「古の大御代」を生きることができたのである。

「人の今日の行ひは、だだその時々の公の御定めを守り、世間の風儀に従ひ候が、即神道」なのだ。これはちょっと倒錯的な考えなのかもしれないが、雅やかではかない人情こそ至上であり、穏やかに天に従って生きる日本人を目標とする彼にとってみれば、たとえ俗悪なる政府だったとしても、それに反抗するような真似は日本人らしくないのである。

それに、日本は天皇を戴く特別な国なのだ。「本朝は、天照大御神の御本国、その皇統のしろしめす御国にて、万国の元本大宗なる御国」(!)だと宣長は言う。天皇は徳によってではなく、神の子孫であるという神聖性により国を治めている。であるから理屈を廃して、ただ恭しく御上に従えばよいというのである。

日本は、天皇ではなく将軍の統治する国ではないのか? との疑問も湧くが、実はこの宣長の考えは次第に実質化していった。宣長が常用した「皇国」という言葉が、速やかに普及していったことはその象徴である。朝廷の権限は別に強化されていっていないのにだ。

そもそも、幕府は形式上こそ天皇から任命されて統治を行っていたが、実際には朝廷の上に立っていた。徳川家康は「禁中並公家諸法度」を定めて朝廷の行動を制約している(これは一度も改正されない)。年号の改元すら、江戸の当初は天皇の即位ではなく将軍の即位に合わせて行われたし、形式的には朝廷が与えることとなっている官位(「従三位」など)も実際には幕府が自由に発令することができた。

ところが、幕末にかけて日本はにわかに「皇国」となっていく。それはなぜか。

その大きな要因に、幕府や武士たちの権威の低下があるという。江戸時代というといわゆる士農工商の身分制度があり、固定的な社会であったことが想像される。しかし実際には、百姓や町人は、定められた義務さへこなせばあとは自由だった。身分制度や家職制(イエごとに商売が決まっている)はあったものの、その中で努力すれば栄達は望めた。百姓ですら、意欲的に経営を行えば豪農となって、いわば経営者として暮らすことはできたのである。

だが武士は違った。予め定められた家格の中でしか人生を送ることはできなかった。どんなに優秀でも、無能な上司に従わざるを得なかったし、昇進の可能性もなかった。上級武士はいいとしても、下級武士にとっては飼い殺しにも等しい状態であった。それは構造的な問題でもあっただろう。もはや太平の世の中で武士は本質的に不要なのだ。いくら二本の刀を掲げてみても、その刀を振るう機会は一生やってこないのである。

その上、俸禄(給与)は十分に支払われなくなった。百姓は、自ら「御百姓」と称し、お殿様のかけがえのない領民であることを強調して、しばしば増税を阻んだ。下級武士は、誇りだけはあったが、貧乏で、権威もないという状態へ陥っていた。

「昔は町人の娘はとかく武士の妻になる事を好みけるゆゑ、御禁制にもなりたる程なるが、今は武家の妻女になる事などは風上にも嫌ひ、(中略)武家の風儀は無風流なりとて忌み嫌ひ」という状態だ。要するに、武士は貧乏なうえにダサくて、町人の娘にとってまっぴら御免だというのだ。武士は、町民の娘からすら軽んじられていた。

もはや、「御威光」は存在しなかった。江戸幕府にとっての唯一の支配の力であった「御威光」がなくなったら、あとは「禁裏(朝廷)からの大権委任」という形式論で統治の正統性を強調するしかない。社会的威信のなくなった武家は、公家の権威を利用したのだ。その依存は次第に深まり、やがて「公武合体」へと進んでいく。武家は、「公」の威を借りなければ日本を統治することができないほどに落ちぶれていったのである。そしてその裏返しとして、日本は「神国」であるとか、皇統の連続とかが強調され、国学が花開いていくのである。

こうした趨勢の中で、日本は「開国」を迎える。開国というと、まずは黒船に代表される外国からの軍事的圧力に屈したものだと考えがちであるが、著者によればそうではないという。

開国の前から漏れ伝えられてきた西洋の有様を調べると、どうも「道」の実践において西洋の方が勝っていると考えられた。西洋は、学問が盛んである、人を大事にする(儒学的に言えば「仁」)、政治制度が整っている、というようなことからだ。民主主義によって大統領を選ぶやり方は、中華古えの理想に近く(禅譲)、儒学者たちから誉め称えられた。ペリー来航のはるか前に、普遍妥当の「道」を信ずるがゆえに西洋をみとめ、「皇国」というプライドの裏側で、日本の統治に疑問を持つ態度が醸成されてもいた。

そういう西洋が、日本に開国を要求してきたのである。しかも軍事的に制圧するというような脅しではなく、補給をしたいとか、遭難者を送り届けたいとか、儒教的に言えば「礼」に基づく要求として、正々堂々と主張してきた。これに対して、猛々しい海防の戦術論や、夜郎自大の攘夷論も起こったが、この主張を真面目に受け取ると、相手の道理を認めざるを得ない。実際に、開国すべきか否か諮問された大名たちはそのように意見した。「開国」とは、軍事技術の脅威も背景にはあったが、それよりも普遍的に妥当する「道」に関する説得に出会い、倫理的・思想的な挑戦を受けた結果でもあったのである。

このように、本居宣長がことさら儒学を否定しようとしたほど、この頃は儒学が日本に浸透していたのだ。その結果、実力による制圧と土地の給付による主従関係(徳川と大名への服属)よりも、官位授与による君臣関係(天皇と臣民)こそ「義」だと往々信じられた。こうして、禁裏(朝廷)自身は派手な宣伝活動をしたわけでもないのに、どんどんその威光は高まっていった。一方で、禁裏自身には自ら独裁者となる気概はなかった。そのため、禁裏を担げばそれによって権力を握り、政局を動かせるという構造が成立した。これが明治維新を動かす公然たるルールになった。

こうして、江戸時代の矛盾を解消するべく明治維新が動き出した。それは特に、飼い殺しされてきた下級武士の鬱屈の解消だ。彼らは「立身出世」できる自由を欲していた。そしてその統治原理として、「公議輿論」が持ち出された。これは民主主義というよりも、「人心の居合」を秩序の条件とする儒学的な発想から、「衆議」「群議」によれという手続き論が支持された結果だ。よって、五箇条の御誓文の第一は、「万機公論に決すべし」となった。

しかしこの「公論」の重視は、ひとたび明治政府が確立するとそれ以上に育てられることはなかった。岩倉使節団が西洋の事情をつぶさに観察してみると、西洋文明の根幹にキリスト教があり、その信仰が社会の基盤となっていることに気づいた。そこで、伊藤博文らはキリスト教の代替物として「皇室」を臣民に崇拝させることで、国家を統合することを企図した。

福沢諭吉は、文明の根幹はキリスト教ではなく「独立の精神」だとしたし、ほとんど朱子学者であった中江兆民はルソーと孟子の一致を感じ、普遍的な「理義」にそれを求めたが、こうした民衆を鼓舞し内省を促す理論は十分に育たず、結局次の時代の大きな思潮は皇学へと収斂していくのである。

本書は、東京大学での講義を元にしたものであり、特に前半はいわゆる「名物教授」的な雰囲気が強い。つまりアクが強いのである。しかし中盤以降はその調子に慣れてくるからかほとんどエキサイティングとも言うべき迫力があり、江戸時代の儒学という地味なテーマが非常に面白く感じられる本である。

しかし、取り上げる思想に粗密があるからなのか、幕末をあれだけ騒がせた吉田松陰などは全く触れられていない。また、著者自身が後書きで述べているとおり平田篤胤も「扱うべくして扱えなかった」とされている。幕末の志士への影響力という点で言うと、宣長よりも篤胤の方が数段大きいような気がするが、どういう判断で篤胤には詳しく触れなかったのだろう。

そういう編集方針に対する疑問もあるにはあるが、とにかく平板になりがちな政治思想史を面白く書くという意味では成功している本であり、タイプは違うがマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を彷彿とさせた。

明治維新を理解する上での基礎となる日本儒学が辿った近世史を、深く面白く学べる本。

2017年5月11日木曜日

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著(その1)

江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。

明治維新は、日本の社会にとって急展開の変革だった。にも関わらず、盤石に見えた江戸幕府は速やかに雲散霧消し、さほどの抵抗もなく人々は新様式の社会に順応していった。なぜならば、明治維新の背景となる思想的な準備が江戸時代になされていたからだ、というのが著者の考えだ。

このように、本書は「徳川の治世の元で(中略)政治・社会の在り方を根底から変革させ、新体制を生み出させるような何かが、知的にも、すでに起きていた(p.4)」という認識の下、17〜19世紀における儒学を中心とした知的な変遷を辿るものである。

徳川幕府の成立当初においては、統治の大義名分を示すという意味での政治思想にはさほどの意味がなかった。戦国の覇者が今のところ徳川である、というだけで、いつまた戦乱の世に戻るとも知れなかったし、武士たちはいつでも臨戦態勢を取れるよう準備していた。ただ戦国の覇者としての「御威光」があれば、人々はそれにひれ伏していたのである。

しかし、いつまでも戦乱の世はやってこなかった。こうなると、武士は支配階級としての存在意義がなくなってくる。戦は起こらないのに、見せかけの武力だけで「御威光」の一端を担っていた。そのために、「武士道」はほとんど「武士らしさ」を偽装する演技になってしまった。

そんな偽装をしても、太平の世の中でいつまでも武断政権が続くわけがない。「武」はもはや不要の世界になっていた。「武」による統治から、「文」による統治、文治主義へ移行して行かざるを得ないのである。

そこで徐々に勃興してくるのが、儒学である。当初、幕府は儒学を統治原理としては採用しなかったから、江戸初期において儒学は「遊芸」の一つにすぎなかった。思想集団としても、例えば寺院が全国に組織化されていたのに比べれば、日本全体でほんの数十人しかいない少数勢力だった。だが、それが遊芸であるがために、かえって本気になる人も出てくる。俳諧や茶の湯が遊芸として発展していったごとく、儒学も遊芸として普及していくのである。

この頃の儒学といえば、ほとんど「朱子学」と同義である。朱子学は、孔孟の教えを基盤にして、森羅万象をも説明する緻密な理論を打ち立てていた。(本書には詳しく書かれないが)朱子学を奉じる林羅山は徳川家康に厚遇され、そのブレーンの一人となった。林羅山は朱子学の官学化に寄与し、朱子学はやがて「正学」とされて特別扱いされてゆく(寛政異学の禁)。

しかし、江戸幕府(本書の用語では「公儀」)の支配原理が儒学でない以上、儒学が広がることは実は危険だった。というのも、儒学によれば支配者は「天命」を受けた「聖人」であり、「聖人」は最高の「徳」の体現者でなくてならない。だが江戸幕府は徳によって支配しているのではなく、武力によって支配しているのが歴史的事実なのだ。そもそも、儒学というものは統治の学である。これを学んだものが科挙によって抜擢され、統治機構に組み込まれていくという仕組みがないのに、遊芸として統治の学が学ばれるということ自体が一つの倒錯であった。

よって、儒者たちは、自らの理想とする理知的な社会と、無知な武人が支配する現実の落差を感じ、現実を変革しようとするにせよ、あるいは理論を修正するにせよ、なんらかのつじつまを合わさなくてはならなかった。

山崎闇斎の門人で、正統な朱子学者だと自認していた浅見絅斎(けいさい)は、そういう矛盾の中で、一種の尊王論にまで至った。彼は現状の君臣関係を絶対化し、それを儒者らしく「道」だとしたが、これを突き詰めると徳川すら天皇の臣ということになり、将軍は「天子の御名代(代理人)」として統治しているに過ぎないということになってくる。現状の秩序をあくまでも肯定する立場から、武家の支配それ自体の正統性に疑問を投げかけるという逆説的な事態が生じたのである。徳川体制ができて約100年、儒学がようやく地位を得てきた頃のことであった。

元来、儒学は「革命」を肯定する。ひとたび「天命」が下ってもそれは絶対ではない。「天子」が本来の統治を忘れ、権力におごり享楽に耽れば、天変地異などにより「天」はその意志を変えたことを示し、新たな「天命」を下して権力者をすげ替える(放伐・革命)のである。儒学は、世がうまく治まっていれば現状肯定の思想であるが、世が乱れれば革命の思想となるのである。

そんな儒学であったから、儒者は必ずしも政権に重用されなかった。だがその例外が、6代将軍家宣に使えた新井白石である。新井は、家宣が将軍になる前からの学問の相談相手だったことにより、旗本として取り立てられ官位をも与えられて統治全般にわたって大きな影響力を持った。新井白石は将軍のブレーンとして朱子学に基づいて政策を立案し、しかもそれがかなり実行に移された。

彼は、日本を「儒教」によって統治する国に作りかえようとした。例えば、武家諸法度を初めて全面改正し、万民を道徳的たらしめる訓示へと変質させた。さらに、儒教としては重要な「礼」制定の努力もなされた。即位と元服、孔子廟礼拝、服喪の規定、外交儀礼の改正といったものだ。彼は中国的な「儒教」を日本に適用しようとしたのである。そういう新井白石だったから、天皇の権威は認めていたが、『日本書紀』に描かれるような神の子孫としての神聖性は否定していた。

しかし新井白石の改革は、8代将軍吉宗によって否定されることになる。武家諸法度は元に戻され、儒教に基づく礼楽は取りやめになった。日本を儒教によって治める国にしようとした朱子学者による改革は、挫折によって終わった。

新井白石とほぼ同時代を生きた荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、こうした朱子学の挫折を目の当たりにして、朱子学を批判して独自の儒学思想(いわゆる「徂徠学」)を作り出した。

徂徠は、儒学の根本に帰ろうとした。一種の復古主義である。孔孟の教えを素直に解釈し、夾雑物のない儒学を樹立した。しかも醒めた現実主義と悲観主義によってそれを現実の社会に適用しようとした。いくら普遍的な「道(真理)」の実践であるといっても、「天子」の「徳」によって人民が感化されて世の中が治まる、といった話は徂徠にとっては呑気すぎるのであった。「天子」たる統治者は、社会制度を巧妙に設計して人民を治めなくてはならない、というのが徂徠の基本姿勢だ。

徂徠にとって、徳川の治世は末期的な状況だった。様々な改革を行い、根本から立て直す必要があった。彼は吉宗にも政策提言を行っているがその内容は過激である。現状の秩序を維持するため、家ごとに株を定めて移動を禁じ、身分毎に生活の様式と水準を固定、さらに貨幣をも廃止し、武士は城下町集住をやめて知行地に住まわせるようにさせ、都市化による商品経済化を停止させる。また徂徠は、宗教を「愚民」への統治の道具として使うことを構想した。このように徂徠の思想は、徹底して反進歩・反成長・反都市化・反市場経済であり、上下の差別を固定化し、統治は反民主主義的に行い、個人の生活については反自由・反平等であった。徂徠は、本来は古に復るという保守思想から出発したはずが、反近代のラディカルな改革案に至ったのである。

だが、当然ながらこのような提言が受け入れられるはずもない。徂徠は、幕府がこの提言を受け入れないとしたら、きっと再び乱世に陥ってしまうだろうと予言して死んだ。「聖人」による統治でない限り、天がそれを許すはずがない、世が乱れるはずだ、というのが儒学の教えなのだ。しかしやはり太平の世は続いた。徂徠学を学んできたものたちは、彼らが批判するやり方で統治してなぜ太平の世の中が続くのか、という難問に突き当たることになった。それを解かない限り、徂徠学は間違いだったということになる。

徂徠が復ろうとした儒教そのものは間違っていなかったが、それは結局カラ(中華)の人を治める道具だったのだ、というのがその解答の一つとなった。日本人は元来優れているから「聖人の道」なしに治まるのだ、というのである。制度が儒教に基づいていないのに、太平の世が続いている鍵は「人」だとされた。こうして、徂徠学の存在意義は否定され、むしろ中国に対する日本優位論さえわき起こった。その後の国学の台頭は、徂徠学の崩壊の結果という一面もあるのである。

新井白石にせよ、荻生徂徠にせよ、理念的には保守思想から出発して、現状の権威や秩序をあくまでも肯定し保存しようとする中から、理想と現実のギャップを埋めるために社会を根本から作りかえようとする改革志向の儒学が生じたと言える。しかしその改革は、現実の社会に立脚して課題を解決していこうとするものではなく、あくまでも理念上の問題から構想されたものであった。

(つづく)

2017年5月8日月曜日

『神秘学マニア』荒俣 宏 著

神秘学に関する小文の集成。

本書は、著者が70年代後半から90年代初めに発表した神秘学にまつわる気軽な文章をまとめたものである。神秘学といっても、宗教的なそれについてはさほど触れられておらず、サブカルチャー的なものが中心だ。

第1部はオカルトについて。ヨーロッパで今(執筆当時)でも息づいている幽霊信仰とか、吸血鬼の話なんか割と面白い。

第2部の前半は著者なりのオカルト史。ベルクソンの霊的進化論など、思想史的なものからイルミナティの陰謀論の発祥まで、やや脈絡はないが興味深い。後半は数についての神秘思想。ピュタゴラス学派の考え方や数についての迷信(?)の紹介。

第3部は70年代のLSDを中心としたドラッグ文化や神秘的サブカルチャーの展望について。興隆と挫折を繰り返してきたLSDの申し子たち(例えばティモシー・リアリー)への挽歌。

本書に語られる「神秘学」は、学術的・体系的なものでなく、エピソード的なものであって、本書を読んで「神秘学」の何かがわかるというものでもないが、私が非常に興味を持ったのは本書に横溢する80年代の雰囲気そのものである。

21世紀になって、オカルトはすっかり児戯に堕してしまったが、1970年代には(だったと思うが)米国やソ連は大まじめになって超能力の研究をしたり、LSDは本当に人間の精神を解放すると信じられたりもした。

70年代後半は現代の様々な学問が堅牢な体系を築いた時代でもあったと思う。一方で、「成長の限界」が認識されるなど、現代文明はこのままでいいのだろうか? という内省も促された時代でもある。そうした雰囲気の中で、既存の学問体系への反発、東洋思想(ZENなど)への接近、未だ科学で解かれない超能力への憧れ、LSDやドラッグによる「精神の解放」の強烈な体験、性の開放の進展などがないまぜになって、伝統的な西洋文明に対する挑戦が、西洋社会そのものによって草の根レベルから行われたのだ、という気がする。

今になってみると、どうして当時の人はこんな子供だましに引っかかったのだろう、という部分もある。しかし本書を読むと、子供だましどころかそっちの方が真理への近道と感じた当時の人たちの気持ちが少し分かる気がする。

大げさに言えば、「西洋文明」に抑圧されていた人間本来の力を解放するための新しい教義こそが、「神秘学」であり「オカルト」であり「LSD」だった。それら自体は、頼りない張りぼてだったかもしれないが、70年代から80年代にかけて文化の伏流水として確かに機能していたのだ。