2017年12月28日木曜日

『西行』目崎 徳衛 著

実証的に執筆された西行の伝記。

古今、西行に憧れる歌人・俳人は多く、松尾芭蕉が西行を慕い、自らの旅を西行のそれになぞらえていたことは有名である。私が西行を知りたいと思ったのも、芭蕉や多くの歌人たちの目を通して西行を知っていたからである。

しかしそのせいで、西行には多くの伝説や憧れが付託され、本当の西行がどんな人物だったのか分からなくなっている。本書はそうした伝説を排し、実証的に西行の人生を語るものである。

例えば、西行と言えば「旅に生きた」と思われているが、実際に旅に出ていた期間は短く、また移動距離もそれほど多くないらしい。我々が文学を通して知っている西行と本当の西行は、細かい点で違いがある。

西行は、名門の家に生まれ、特に弓馬の術についての故実(しきたり)の権威の家柄であった。彼は若くして官途に就き、実際に官人として勤めた期間は短かったものの、遁世後でさえも弓馬の術の権威として認められていた。

また、彼は数々の名歌によって女性的ともいえる細やかな感性を持っていたことが知れるが、同時に剛毅な風貌と果断な実行力があり、歌に生きるたおやかな人物というわけではなかった。

そういう西行がなぜ出家したか、というのは西行自身が書き残していないので推測でしかわからない。著者の説は、西行は歌に生きるために出家したというものだ。官人として生きれば、家柄の上下関係や慣習にしばられ、政治的に左右されるという不自由な生き方しかできない。西行が遁世した頃は戦乱の直前でもあり、官人として生きるよりもその埒外に飛びだし、出家者として生きる方が自由にその才能を発揮しうる環境があった。まさに出家というのは、近代以前の社会において一種の「個人主義」を貫ける唯一の道だった。

彼がそういう自分の思いを託したと思われる歌にこういうのがある。
身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
「身を捨てる(=出家する)人は、本当にその身を捨てているといえるだろうか、身を捨てないでいる人こそ、その身を無駄に捨ててしまっているのだ」という意味である。西行にとっては、官人として安定した暮らしを送る方が自分を捨てることだったのだろう。

とはいえ、西行は名門の生まれであり、所領からの収入もあった。妻子もいたようである。身を捨てるといっても、全くの無一物になったというよりは、そうした家の収入があってこその出家だった模様である。

そして、自らの数寄心に殉じて出家したと思われる西行だったが、仏道にも真摯に取り組んだ。西行は30年もの間高野山に草案を結び、仏道修行に明け暮れた。さらに、やがては勧進(寺院の造営のために寄附を募る)のために大きな働きをするようになっていく。我が道を進んで遁世した西行は、円熟するにつれて仏道のため、経世済民のために力を尽くしていった。

そして、歌を詠み、社会事業にも携わる中で、本質的には矛盾する現世での数寄と来世の救済が西行の中で融合し、やがて優れた歌は陀羅尼・真言と同一なものであるという信念に至ってゆく。数寄と仏道の統合が、西行がたどり着いた究極の和歌観であった。

こうして西行は73歳の生涯を終えた。彼は入滅を歌で予告し、おそらくは偶然によってその通りになったものだから、その劇的な最期は人々に衝撃と感動を与えた。

さらに、死後に成立した『新古今和歌集』は、西行に心酔していた後鳥羽院が作ったものであるため、そこには94首もの西行歌が収録されていた。「15年前に世を去った一介の遁世者が、門地最高の慈円・良経、歌壇の巨匠俊成・定家・家隆、さらには治天の君後鳥羽院さえも凌いで、栄誉ある筆頭歌人の地位を占めた」ことで、西行伝説が加速していくのである。

西行はもはや人々が理想を付託していく存在となっていった。そして、人々は西行を通じて数寄の世界に入っていくようになるのである。「西行」は旅と歌と仏道を統合する一種の「世界観」となっていったように思える。そして、現実の彼にも十分にその資格があったのだ。

西行の人生を多面的に検討し、伝説の成立する過程までも考察した良書。


2017年12月25日月曜日

『本屋がなくなったら、困るじゃないか:11時間ぐびぐび会議』ブックオカ 編

福岡で行われている本のイベント「ブックオカ」の一環で行われた、本の出版・流通・販売に関する座談会の模様をまとめたもの。

本書は、11時間の座談会の書き起こしに、インタビュー等の記事を付け加えたもので、本の出版から小売りに至るまでの様々な人たちが、自分なりの考え方でなんとか「本」の世界で生き残っていく方策を探るものである。

本の業界は、近年非常に厳しくなってきている。街の本屋だけでなく、取次(とりつぎ:後述)すら倒産する世の中だ。その大きな原因は雑誌の不振にある。これまでの書店のビジネスモデルでも本の販売ではほとんど儲けはなく、雑誌の販売でそれを補うという形になっていたが、雑誌の売上が急激に落ち込んできたことで、これまでのやり方が通用しなくなってきたのだ。

なぜ本の販売では儲けが出ないのか。その背景には、取次による「委託配本システム」がある。取次とは「本の問屋」であり、「委託配本システム」とは、この問屋が書店に対して本を自動的に納品するという日本独自の配本方法である。「自動的に」と書いたのは、この配本が書店からの注文に基づかないものであるためで、逆に言うと本屋は売りたい本があってもその本を取次から入手するのは難しい(手間がかかる)仕組みになっている。

だから、書店に欲しい本を注文するというのを、地元書店を応援するつもりでやっている人は多いだろうが、実はこの注文(客注という)は書店にとって有り難くないものだ。取次に言っても、その本は入ってこないのだから。だからお客に対して「3週間かかります」などといって客注を受けないようにするところも多い。取次に注文しても納品されないから、近所の大きな本屋から直接調達したりすることさえある。

また、村上春樹の『1Q84』などが出版された時、大型書店には山積みになったのに零細書店にはほとんど希望数納品されなかったということもあった。これは「委託配本システム」の問題というよりは、出版社から書店への納品数指定の問題(大手の出版社は、書店毎の納本数を過去の実績に基づき指定して取次に納本する)であるが、今『1Q84』があれば売れるのに! という街の本屋からすれば、自由に注文できない取次システムは商売の足かせになっているのである。

これは要するに、仕入れたいものを仕入れられない、むしろ売れない本が勝手に送られてくる、という馬鹿げた仕組みであるから、「委託配本システム」の評判は悪く、取次の悪口は多いのであるが、本書の座談会には取次からもメンバーが入っていて、普段は見えづらい取次としての考え方も開陳されるのが本書の面白いところである。

そもそも、何千とある出版社の、何十万という本のタイトルから自らの書店で売りたい本を選び、発注し、伝票を起こし、請求をし、入金を確認するということはほとんど不可能なことだから、取次自体は必要な存在である。その上、特に弱小出版社の本などは取次が「委託配本システム」によって頒布しなければ、陽の目を見ることすら難しい。出版社にとっては、例えば3000部刷ればとりあえず全国の書店に3000部並ぶ、ということがあるだけでもこのシステムは有り難い。

また、戦前の苛烈な言論弾圧の反省から、取次ではどんな本であれ(=いくら売れなさそうでも)一度は流通させるという、インフラ的な矜恃を持っている。取次が配本しなければ、その本は事実上存在しないのと同じことになる。だから、売れる売れないに関わらず、半ば強制的に書店に卸す仕組みが必要だと考えている。書店が欲しい本を欲しいだけ入荷できないというのは、ある意味ではこの仕組みの副作用なのだ。

その上、取次はこれまで、出版社・書店の双方に金融機関的な機能を提供してきた。これについてはちょっと説明が必要だろう。日本には本の再販制度がある。これは、本は定価で売らなくてはならない代わり、本は返品可能なものとして書店に納品されるということである。要するに、本は書店の在庫というよりは、書店の「資産」でもある。だから月末に10万円資金が不足したとすると、10万円分の本を取次に返品すれば事なきを得るということになる。出版社にとっても、本をとりあえず3000部刷って取次に納品すれば、その分の収入はすぐに得られるということになる。その本は実際には売れる見込みがなかったとしてもだ。取次があるおかげで、書店も出版社もこういう方法で経理のやりくりをすることができる。

そういう実態を考えると、取次への文句というのは、「これまでなんでもやってくれたお母さんへの不平不満」みたいなものであるという。今、業界全体が縮小していく中で相対的に少数である取次への不平不満が目立っているだけで、実際には出版から流通に関わる全てのシステムが見直しの時期を迎えているというのが事実だろう。

一方、日本と同様に本の再販制度がありながら、日本とは違った本の生態系を作ってきたのがドイツであり、座談会ではドイツのやり方が詳細に報告されている。まず、ドイツでは本の返品率は5%程度だという。日本の場合はものによっては40%にも上ることがある。その差は何か。ドイツには委託配本システムがなく、配本はあくまで書店からの注文に基づく。しかも、いつでも希望の本を注文でき、それがすぐ届くという安心感があるから、必要最低限の本しか注文しない。だから返品率が低いのである。

また、ドイツの書店は日本のそれのように本が大量に陳列されていないという。本は平売りなどの複数冊の販売が普通で、要するに書店がセレクトショップ化している。売りたい少数の本を売りたいだけ入荷し、書店の固定客に対して売っているから返品が少ないのである。

これは逆から見ると、書店からの注文がなければ本は出荷されないということになる。だからドイツでは出版点数が少ないのではないか? と思うが、ここがすごく不思議なところで、ドイツでも日本並みに(=つまり大量の)本が出版されているのだ。ただし、日本とドイツで違うところは、日本の場合は独立系の小さな出版社がたくさんあるということだ。ドイツだけでなく諸先進国では、小さい出版社もあるにはあるがそれらは少数の大出版社の傘下のグループ企業となっており、配本などのシステムは共同化しているということである。やはり、取次による委託配本システムがなければ弱小出版社が成り立って行かないというのは事実のようだ。

そして最も大きなドイツと日本の違いは、ドイツの本の定価は日本の倍くらいするということである。定価が倍だから半分しか売れなくても売上は同じになる。このことで本の粗利を高め、本を売ることで儲けが出るようにしている。大量に売る必要がないからシステムに無理がないのである。

とはいえ、Amazonや電子書籍といった「黒船」への対応も徹底的にやっている。ドイツでは出版・流通・書店の業界がこうした「黒船」の脅威をともに認識し、非常なる危機感をもってこれに対抗しうるシステム(流通の効率化や電子書籍対応)を業界全体で構築してきたた。ここが日本と全く違うところで、日本の場合は、業界全体としてその危機感を共有できず、今までのシステムを引き続き使い続ける前提で座して死を待っているような様子である。

このままでは日本の本屋はやっていけないのである。

そこで本書では、どうにかこれからも出版・流通・書店を続けて行きたいという思いで新進気鋭の取り組みをしている人たちが紹介される。取次に頼ってはあるべき配本ができないという考えから、書店への直販を始めた出版社。既存の取次とは違った本の取り扱いをしたいという思いで、たった一人で取次を始めた人。そして本が売れない中でも、なんとか書店をやっていきたいと様々な取り組みをしている書店員。

そうした様々な事例における問題意識や解決策は、大まかには次の2つにまとめることができる。
(1)委託配本システムのような書店不在の流通システムはもはや崩壊しているから、取次はインフラとしてのあるべき姿に帰るべきで、流通を合理化させ、必要なところに必要な本を必要なだけ配本できる存在(問屋として当たり前の存在)にならなければならない。
(2)本を売ることで儲けを出すことは、現状の定価で行く限り不可能なので、書店は本以外の取り扱いを増やす必要がある。例えば、カフェ、雑貨、文具、実用書に基づいたサービス(例えば楽譜を扱う店なら音楽のレッスンをする、レシピを扱う店なら料理教室をするといったような)などが考えられる。

ところで、本書は様々な立場の人からの発言があるので、出版・流通・書店のそれぞれの考え方を多面的に見ることができるのであるが、そこに一つ顕著な特徴がある。それは、「我々は求められているんだ」という需要側の論理で話す人がほとんどいない、ということだ。例えば書店で言えば、ほとんど全員が「Amazonがあれば消費者には十分だ。むしろAmazonの方がずっと便利だ」という考えで話しているように見える。その上で、「だけど我々はこの街で本屋をやっていきたい」といっているのだ。書店が求められているからやっていきたいというのではなくて、「書店はいらないかもしれないが、私はやっていきたい」という、ある意味では手前勝手な理屈で押し切っている。

出版においても同じである。もちろん弱小出版社がキラリと光る本を出すこともあるので、そういう出版社も求められていないわけではない。しかしそれ以上に、「自分たちは出版以外で働くことはできないんだ」というような、やむにやまれず出版社をやっているようなところがある。

つまり、本の業界には「本に魅入られた人たち」がわんさか働いていて、そういう人たちは社会から求められていようが、求められていまいが、「本の世界」で生きていきたいのである。これは「もう勝手にしろ」というような部分もあるが、でもそういう「本に魅入られた人たち」が文化の根底を支えてきたという面もあると思う。こういう人たちが蠢いている世界だから、私などはこんなに面白い業界もないと思ってしまうのである。

なお、本書全体を通してみて思ったのは、やはり本の価格が低すぎては他の取り組みもできないので、まず本の価格を上げるということが必要だということだ。例えば、600円の文庫本を900円にする、1500円の単行本を2300円にする、というようなことを。現在の出版流通では、すぐにゴミクズになってしまうようなチープな本を自転車操業的に回していかないと資金繰りができない形になっているのが大問題である。もっと息の長い出版活動ができるようにならない限り、改革しようにもその余力もないと思う。

また、本書では図書館と古書店についてはほとんど扱われておらず、話が新刊のことに終始しているのでその点は少し不満だった。それから本書のテーマとはちょっと違うが、雑誌の編集プロダクションの人の話もあればまた違った視点から書籍流通のことが見えたかもしれないとも思ったところである。

しかし福岡という辺境の地で(といっても鹿児島から見たら十分すぎるほど都会)、このような業界を根底から見直す座談会が行われ、その議事録が立派な本になって出版されるというのは心強い。

変化は辺境から始まる、という。今はまだ小さいながら、本の未来を見据えた取り組みを垣間見ることのできる力強い本。


2017年12月4日月曜日

『生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆』角山 榮 著

産業革命以後19世紀半ばまでの、イギリスの市民生活について書いた本。

言うまでもなく、産業革命を発端とした近代的産業の成立は人々の暮らしを大きく変えた。イギリスは、いわばその変化の先頭に立った国である。本書では、産業革命によって引き起こされた社会生活の変化を、主に下流から中流階級を中心として見ていくものである。

産業革命は、新産業の勃興であったが、それは違った面から見ると旧産業の破壊であった。これは平和的に移行した部分もあれば、例えばインドのキャラコ産業のように、意図的に撲滅させられた場合もあった。イギリスはどうしてもインドのキャラコ産業に打ち勝たなくてはイギリス製の綿布を普及させていくことができなかったため、インドのキャラコ職人を捉えて腕を切り落とし、あるいは目をくりぬいたのであった。

そういう非情な手段が使われたわけではないが、イギリス国内でも平穏な農村の暮らしは破壊され、社会的な平衡状態は打ち砕かれたのである。

そうして、都市には新たな社会が勃興してきた。この新たな社会は、貧困にまみれた労働者と、新興の資本家によって象徴される。労働者は汚穢の中で生き、満足な食事も摂ることができないまま長時間働かされ、ひどいところでは平均寿命は15歳の短さだった。この境遇は、経済発展によって自然に解消されることになるが、産業革命の背後には、当初は黒人奴隷、そして次にイギリス国内の労働者の犠牲があったのである。

一方で、新興の資本家は、富を背景にしてやがて貴族のマネをし始める。当初は富と社会的地位は必ずしも一致せず、資本家はいくら大金持ちであっても、貴族よりは権威が低いと思われていたが、資本家も広大な土地を購入して邸宅を構え、貴族と変わらない暮らしをするようになると次第に貴族との境界は薄れていった。

このように、産業革命で旧産業や旧社会のしくみが崩れ、身分制のタガが外れてくると、下流階級は中流階級のマネをし、中流階級は上流階級のマネをするという現象が生じてきた。これは、一見してそう思うほど当たり前のことではない。フランスではこの頃、階級制が割とはっきりとしていたため、イギリスのような階級上昇のメカニズムが働かなかった。隣の人よりも、いい暮らしをしたい、少なくとも「いい暮らしをしているように見せたい」という虚栄の気持ちが、余暇を削ってでも労働に勤しむという行動を産み、経済発展に繋がっていった。

本書でも、「勤勉」の理念の元としてウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が援用されて説明されるが、これは今日ではほぼ否定されている説であり、それよりも、この「虚栄」が「勤勉」に繋がっていくという説の方が説得的と感じた。

本書ではこうした通史的部分の他に、コーヒーハウスが社会に果たした役割、服飾革命など生活の国際化、食事・娯楽・旅行など生活のレジャーの面、上流階級の生活といったものがトピック的に扱われ飽きさせない。

著者の角山 榮は経済史家。この他、川北 稔と村岡 健次が執筆している項目がある。

産業革命以後の社会変化を裏側から見る面白い本。